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宮司講話集

「信長公当時の世界における日本」 
 平成12年10月19日 船岡大祭にて


 本日は皆様大変お忙しいところ船岡祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は御祭神織田信長公が始めて上洛され、天下統一の第一歩を記された永禄11年10月19日にちなむお祭で建勲神社の創建当初より北区上京区を中心として各学区の皆様により執り行われて参りました。毎年毎年皆様がこのようにご参列賜り建勲神社の大神様を心より敬って頂けることによりご神威が弥増し本当に有難い事でございます。

 織田信長公のご神威と申しますと、堺屋太一さんが面白い事をおっしゃっております。経済企画庁長官の堺屋大臣は経済の専門家でいらっしゃいますが作家としても、又信長公の研究者としても著名な方で、信長公があと10年長生きされたなら日本の歴史はおろか東洋史、世界史は全く変わっていたに違いないとおっしゃっています。
 信長公当時の世界はスペイン・ポルトガルの二国が最先進国として世界に進出していましたが、当時の日本の人口は1500万人でポルトガルの10倍もありました。しかも当時の日本は一流の文明国で、スペイン・ポルトガル以外をほとんど認めないイエズス会の宣教師も日本人だけは高度な文明人と認めていました。当時は文明人であるか野蛮人であるかが大きな違いであったようで、ローマ法皇は新大陸のインカやマヤの人間などは家畜と同じでどのように働かせ殺しても神はお許しになると宣言してられたような時代でした。
 中国は当時、明の時代でしたが、大変力が衰えておりました。明は江戸初期に滅ぶわけですが、明が江戸幕府に援軍を求め、幕府は数万の兵を派遣する準備をするのですが、間に合わずに明は満州族に滅ぼされ清となります。このように信長公の頃から中国と日本の力は完全に逆転しておりました。又、当時、日本は城郭建築や航海術等の科学技術は世界一流で、鉄砲が伝えられると九州の離れ島である種子島に於いてすぐに複製を作ってしまう程でした。信長公は長篠の合戦で三千丁の鉄砲を使ったわけですが、三千丁の鉄砲といえば当時のヨーロッパの全鉄砲数に匹敵する数であります。
 要するに当時の日本は世界の中で質量共に第一級の国でありました。又、信長公は当時、蝦夷地のほぼ完全な地図を持っておられ、その積極的な商工業を中心と考える政策等からみて、堺屋太一氏は色々と想像をめぐらして世界の歴史がいかに違っていたかを夢を持って語っておられます。
 しかし、その後日本は、徳川時代に鎖国し、農業中心の国に逆戻りするわけですが、ヨーロッパでは、スペイン・ポルトガルはフェリペ2世の死後急速に衰え、かわって信長公と同じような積極的なリーダーが現われた、エリザベス1世のイギリス、ルイ14世のフランスが世界に発展していく事となります。
 余談になりますが、フランスのルイ14世はフランスの最盛期の王様で壮麗なヴェルサイユ宮殿を造りました。面白いことにルイ14世の命により、ヴェルサイユ宮殿はなんと当初から今と同じように料金をとって国内外の人々に見物させました。信長公も安土城を建てられると敵味方を問わず、誰にでも木戸銭をとって見物させました。ルイ14世といい、信長公といい、当時の常識からすればとんでもない事をお考えになり、実行されるものであります。
 以上、やや長くなりましたが、信長公の偉大さについて一言、申し上げた次第であります。

 さてこの4月、野崎弘毅様、野崎節子様が中心となって建勲神社のふもとの大鳥居前に立派なご神燈を一対ご奉納賜りました。このご神燈は高さ3米余り、上部の傘巾が1米という大きな石造で、おかげで建勲神社の入口が大変立派になり有難うございました。
 又、この10月には、ご祭神信忠卿ゆかりの塩川利貞様が瀬戸内海の庵治石を使った石燈籠一対をご奉納頂き、そちら人間五十年の歌碑の前に設置頂きました。塩川様本当に有難うございました。次々と毎年皆様のご芳志を賜り心より感謝申し上げます。

 本日は皆様ご参列賜り有難うございました。どうか皆様には建勲神社の大神様のあらたかなご加護をお授かりなされ、益々ご健康にご発展なさいますようお祈り申し上げます。有難うございました。

(以上)