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宮司講話集

「神仏再習合の動き」
 平成19年10月19日 船岡大祭にて


 本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございました。船岡祭は織田信長公が天下統一の為始めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。

 さて妙な事を申しますが、神社でお坊さんが法要を行ったり、お寺で神主さんがお祭りをしたりはいたしません。お宮とお寺とは別々のものである事は皆様よくご承知の通りであります。しかし最近面白い現象がみられます。比叡山の僧侶が大勢で平安神宮の本殿で感謝の読経を行ったり、清水の舞台で石清水八幡宮の神官が清水寺のお坊さんと一緒に毎年お祭りをしたり、北野天満宮が金閣寺でお祓いをしたり、明治維新以来絶えて無かった事がごく最近行われ始めています。これはどういう事なのでしょうか。
 明治維新まではお宮とお寺との間柄は神仏習合と申しますが、今よりもっと良くいえばおおらかで、悪くいえばあやしげな雰囲気をもって混じり合っていた様であります。明治維新の後、日本は白人でない国で唯一の文明国であると西洋各国に認めてもらう為、明治政府は全国民のちょんまげをやめたり、巡査さん、兵隊さん、お役人の服装をすべて洋装に切り替えたり、鹿鳴館で西洋式舞踏会を開いたり、本当に涙ぐましい努力を重ねておりました。特に宗教については、当時文明国は全てキリスト教でありました。仏教、イスラム教その他の宗教の国は非文明国でありまして植民地にされていました。日本だけは非白人非キリスト教国で唯一文明国扱いされるのであり、白人にとってあやしげな様子にみえる宗教を棄ててキリスト教に切り替えるべきである、それには先ず皇室の宗教をキリスト教にしようとする動きがあったり、又、逆に大教院という組織が作られ、神官僧侶合同で理論武装を急いで行って布教に取り組んでキリスト教に対抗したり、明治政府の宗教政策は様々に揺れ動いた後、結局国家神道つまり教典も教義もない宗教でない国家儀礼施設としての神社をつくり出す事になりました。
 これは当時欧米各国の宗教政策の中で最先端をゆく考え方でありまして、神社は政府からみると単なる儀礼を行う施設であって宗教ではない、外国人からみてやはり非宗教であるが、一般の日本人からは神社に対し宗教的要素を求めてもよいという極めて洗練されたすばらしい政策でありました。
 戦後一時国家神道の為に日本は戦争の道に突き進んだという的外れの非難がなされた事もありましたが国家神道の象徴である橿原神宮や明治神宮は戦後も60年となって益々盛んであります。
 それにしましても仏教は当時相当弾圧された面があり、神社もほこらの様なものは片っぱしから取り壊され、三重県の様に神社の数が三分の一以下に減らされたりしましたが、神道仏教を近代化しようとした明治の宗教政策の正当性と必然性は大いに認めるべきと思います。一方そうはいっても神仏を大急ぎで分離し、一見あやしげに見えるものを全てそぎ落としてしまったその中に実はかけがえのない大切なものがあったのではないか、もしそうならそれを復活しようという動きが冒頭申し上げた様な神仏再習合にみえる最近の動きであると存じます。21世紀は宗教復活の世紀とも言われていますが、今後神社とお寺の関係がどうなっていくか、しっかり見定めていかねばならないと存じております。

 それにいたしましても、今から430年昔、織田信長公が安土宗論を行わせて違う宗教同士が相手を非難したり宗教的政治闘争を行う事を一切禁止されて以来この方、日本では宗教と宗教とがいがみあう事のほとんど無い本当におだやかな社会となりました。21世紀には世界各国においても、日本と同じ様に宗教と宗教とがいがみあう事のない平和な世界になる事を祈念する次第であります。

 最後にご報告でございますが、この程ご本殿と手水舎の檜皮葺のお屋根の葺替工事を無事竣工させて頂きました。本日は皆様ご多忙の中ご参列賜りまことに有難うございました。建勲神社の大神様のあらたかなご加護の下、益々ご健康にお過ごしの程お祈り申し上げます。有難うございました。

(以上)