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宮司講話集

「桶狭間の合戦は奇襲戦ではなかった」
 平成22年10月19日 船岡大祭にて


 本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が始めて天下統一の為上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からゆかりの方々のご参列を得て執り行うことができ、まことに有難うございます。

 さて今年は信長公が桶狭間の合戦で今川義元を破った永禄3年5月19日から丁度450年の記念の年に当ります。2千5百名の織田軍が2万5千名の今川軍を破った大勝利であり、これにより信長公の武名は一挙に日本中に広まりました。少数の兵で大軍を破ることは理想でありますが、大規模な戦いではそういう例はまずありません。そこで全国の戦国武将は桶狭間の合戦を随分研究したようであります。そして結論として織田軍は迂回路を通って密かに今川本陣に近づいた奇襲戦に違いないと思ったのであります。
 その後太平の世が打ち続いた江戸時代にはさらに色々と脚色がほどこされ劇的に語られるようになりました。すなわち27歳の颯爽たる青年武将信長対42歳の公家風武将義元というイメージの対比や、信長が「人間五十年下天のうちをくらぶれば・・・」という舞を舞って生死を超越した勢いで出陣した様子、又、折から起きた豪雨の中で自ら陣頭に立って大敵に突っ込んだ話、そして信長方が圧勝し敵の総大将義元の首まで取ってしまった文字通り完勝というお話であります。
 明治以降も小説・映画でしばしばこのように取り上げられ、一般のイメージも定着しました。陸軍参謀本部も桶狭間の合戦を詳細に研究しましたが、やはり小部隊が迂回して敵の本陣に近づき奇襲をかけて殲滅する理想的戦いとして研究され、先の戦争におきましてもガダルカナルの地上戦で迂回路から近づく奇襲戦法が行われましたが、敵アメリカにいち早く気付かれ大失敗に終っています。

 ところが最近25年程の間に桶狭間の合戦が奇襲戦かどうかについて丹念な研究が進んで参りました。合戦の舞台となった丸根砦、桶狭間、大高城等の地形の高低、距離、眺望等を詳細に研究し、『信長公記』を始め当時の資料の記述と照らし合わせて読み込み、さらには公家の日記や戦国大名の間を渡り歩いていた当時の連歌師や遊行僧の紀行文を分析して実際使われていた道路のルートを見定めたり、地道な研究がなされました。その結果、義元が休息をとった桶狭間は名前から谷あいの地というイメージであるが、実際は桶狭間山という小高い山であったことが判明しました。又、信長はこっそり迂回路を通って一か八か義元本陣に奇襲をかけたのではなく、義元が緒戦の勝に乗じて陣形を大きく分散した時、信長が全軍を一点に集中させて義元本陣を真直ぐ正面から攻めたこと等が明らかとなって参りました。
 これらの研究により信長公は運よく奇襲に成功したのではなく、正面からベストのタイミングで義元本陣を真直ぐに攻めた気迫の勝利であったことがはっきりした事は、まことに慶ばしい事であります。
 それにいたしましても最近の歴史の研究は、マルクス史観とか皇国史観とかには全く捉われず歴史上の事実のみを取り上げ、自分の考えに都合のいい事実も都合の悪い事実も誠実に考証して積み上げ真実に近づこうとする研究が多く、まことにすばらしい事と存じます。

 さて西陣に生まれ育ち信長公を崇敬する幡司学さんが今から16年前「人間五十年・・・」の歌碑をそちらの参道に寄進なさいました。合戦に赴くにしろ、仕事をするにしろ、勉強するにしろ、遊びをするにしろ命がけで一生懸命やるのが一番である、どうせ人間の命は限りがあって短いからというこの歌を人生の指針とした幡司さんは歌碑建立の数年後に他界されました。本日は桶狭間の合戦450年の記念の年に当り、奥様が沖縄より祭典に参加され、まことに意義深い事と存じます。

 本日は皆様ご多忙の中ご参列給わり、お蔭様で今年も船岡祭を滞りなく執り行う事ができまことに有難うございました。建勲神社の大神様のあらたかなご加護の下、益々おすこやかにお過ごしの程お祈り申し上げます。有難うございました。

(以上)