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宮司講話集

「信長公と鷹狩」
 平成27年10月19日 船岡大祭にて


 本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が天下統一の為始めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からもゆかりの方々のご参列を得て執り行うことが出来、洵に有難うございます。

 また、本日、日本相撲協会の京都場所担当部長の枝川親方と放駒親方及び四方本部長にご参拝賜りました。これはご祭神信長公が、大変相撲を愛好され、安土城下等で度々相撲を大々的に催された事、又、相撲の勝負が長引くことを嫌って、丸い土俵を定め、現在の相撲の元をなされた事によるもので、今年初めてご参列いただきました。

 さて建勲神社では、数年をかけて全長800メートルにわたる朱塗の玉垣を新しく造り替える工事を進めて参りましたが、この程、最後に残っておりましたご本殿の裏山をぐるりとめぐる玉垣を含めて全て完成する運びとなりました。最初から工事の設計、施工、監督をしっかりとやりとげられた倉内利光さんのご尽力に心より厚く御礼申し上げます。倉内さん、工事関係者の皆様、どうぞご起立ください。倉内さん皆々様、長期に亘る工事、本当に有難うございました。これからは、神社境内の隅々まで明るく爽やかな雰囲気となり、又ご本殿裏山の国の史跡「応仁の乱西陣陣跡」の保護にも役立つものと存じております。
 
 本日は皆様ご多用の中、船岡祭によくご参列賜りました。どうぞ建勲神社の大神様のご加護の下、益々お健やかに、お幸せにお過ごしくださいます様お祈り申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。
 
 なお、この後、信長公が好まれた鷹狩の様子を再現するべく、諏訪流鷹匠による奉納行事がございます。禰宜よりご説明申し上げます。

<以下、禰宜が説明>
 信長公と鷹狩につきまして簡単にご説明させていただきます。
 鷹狩は、5千年以上前から世界各地で行われており、中央アジアが起源といわれます。日本でも群馬県の古墳から鷹匠の埴輪が出土しており、また日本書紀には、仁徳天皇の御世に鷹狩が行われ、「鷹甘部(たかかいべ)」という鷹を調教する専門の部署が置かれたとの記述があり、我が国でも古くから鷹狩文化が育まれてきました。

 戦国時代には、各地で武将たちが鷹狩を行っていますが、特に鷹狩を好んだとされるのが信長公です。
 戦国時代の鷹狩は、単なる娯楽ではなく、身体を鍛錬し、領内の地理を把握し、また合戦時の機動性・陣立てなどの訓練も兼ねておりました。

 信長公のご事跡については、身近に仕えた太田牛一の著した「信長公記」に詳しく書かれておりますが、「信長公記」によりますと、信長公は若い頃から、弓衆3人、槍衆3人、鳥見衆20人などを引き連れて御自ら鷹を腕に乗せ、鷹を腕に乗せることを「据える」というそうですが、鷹を据えて頻繁に鷹狩に出かけ、たいそうな腕前であられたとのことです。 

 上洛後には、長引く戦乱に荒廃した人々の心を明るくさせるため、家臣団を引き連れ趣向をこらして着飾った鷹狩装束にて参内し、年寄衆の一団の中に鷹を14羽据えさせ、信長公自身も鷹を据え、天皇陛下に鷹をご覧いただいてから、東山で鷹狩りをなさっています。京都の町の人たちは、その行列を喜んで見物し、あまりの豪華さ美しさに驚き感激したとのことです。

 当時も鷹は大変貴重なものでしたが、信長公ご所有の鷹は18年間に140羽にのぼり、奥羽の伊達輝宗、津軽の南部政直、相模の北条氏政、土佐の長宗我部元親など諸大名からも多くの鷹が献上されています。
 特に天正7年に献上された雪のように白い鷹を信長公はたいそう気に入られたそうです。この「しろの御鷹」は評判になり、多くの人が鷹狩見物に集まったとの記述もございます。

 このように信長公が鷹を可愛がり、鷹狩をこよなく愛好されたことにちなみまして、本日、諏訪流放鷹術保存会の皆様により、鷹狩の技が奉納されることとなりました。
 放鷹術というのは、鷹を放つと書くのですが、鷹とともに野に出るために鷹匠が備えるべき技と心をいいます。鷹は警戒心の強い鳥で、鷹を養い育て訓練するには忍耐力と高度な技術が必要とされます。諏訪流は信長公に仕えたとされる小林家次、この方は信長公より鷹の字を賜り小林家鷹と称するようになったそうですが、小林家鷹を初代として、本日ご参列の第17代田籠善次郎氏にまで、その技と心を代々受け継いでこられました。

 それでは、この後、諏訪流放鷹術保存会の鷹匠の皆様により、鷹狩の技をご奉納いただきますが、その前に、諏訪流第17代宗家田籠善次郎氏より鷹絵の奉納がございます。

(以上)