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藤安将平刀匠の講話 平成30年10月19日〜28日 薬研藤四郎再現刀の公開に際して


 平成30年7月1日、織田信長公愛用の短刀”薬研藤四郎”再現刀(藤安将平作)を信長公の家臣有縁の方よりご奉納いただき、同年10月19日の船岡大祭にて展示後、10月28日までの10日間にわたり貴賓館にて公開しました(建勲神社写真集”薬研藤四郎”再現刀の奉納及び公開(平成30年)へ)。
 公開期間中は、藤安将平刀匠より、薬研藤四郎及び日本刀全般についての講話が1日3回(初日は2回)行われ、多くの参拝客で境内が賑わいました。
 藤安将平刀匠による計29回の講話のうち数回分の講話について、録音を元に一つにまとめ、藤安刀匠に加筆修正いただいたものを以下に掲載します。

  1 薬研藤四郎の再現
  2 本来、刀とは何か
  3 刀への向き合い方
  4 本質を見失った日本刀
  5 ゆがんだ方向に来ている戦後の日本
  6 日本刀を正しい形で次世代に伝えるために
  ※ 日本刀と私 (講話の合間に、藤安刀匠が語ったエピソードをまとめました。)

1 薬研藤四郎の再現

 今回いろいろなご縁がありまして、織田信長公をお祀りしている京都の建勲神社に薬研藤四郎を再現したものを奉納したいという、そういう奇特な方のご意志に沿って短刀を作りました。
 薬研藤四郎は、鎌倉時代の山城国粟田口派の刀工「吉光」の作です。吉光が作った刀は、吉光の俗名が藤四郎であったことから藤四郎と呼ばれますが、この短刀は、持ち主であった畠山政長が、敗戦の際に切腹しようとしたものの腹に刺さらず、投げ捨てたところ、近くにあった薬研(薬を粉末状にする器具)を深々と貫いたことから薬研藤四郎と呼ばれるようになったといいます。その後、薬研藤四郎は、足利将軍家を経て、松永弾正より信長公へ献上され、信長公の愛刀として大切にされましたが、本能寺の変の際に火災にあい、信長公とともに命を終えています。本能寺の変の後、再刃(さいは)・焼直(やきなおし)といって、もう一度焼き入れをされたという記録はありますが、その後行方不明になり、今は見ることができません。ひょっとしたら、どこかで発見される望みがないことはないのですが、今のところ見つかっておりません。

<古刀の再現>
 現存しない刀なので、どういうふうにそれを再現するのかということを自分の中でイメージとして固めるのに少し時間がかかりました。二年くらい前にこの話をいただいて、この二年の間に色々な資料を集めました。図版などに現存する藤四郎がたくさん掲載されています。また刀絵図の中にもたくさん藤四郎が載っていますし、焼け身という分類の中にも藤四郎が載っていますので、それらを可能な限り集めて、原寸大にコピーしたり拡大コピーしたりして、仕事場のあちこちにべたべた貼って、藤四郎にどっぷり浸りました。
 古刀を再現するには、古い刀がどのようにして作られたかを技術的につかまえなくてはなりません。普通の人は刀を鑑賞し、心で受け止めていろいろな思いがそこから湧き上がってくると思います。私の場合は、刀を作る技術者として、古い刀の地肌の模様から、その刀が何回くらい鍛錬されたものなのか、どんな素材をまとめたものなのかを推測する目を養わなくてはなりません。刃文一つにしても、技術者の眼で見つめ、どういう温度で、その温度をどのくらい保持して、どのタイミングで水に入れたかを読み取らなくてはなりません。古い時代に作られたであろう技術を読み取っていって、なるべくそれに近いものを作ろう、なるべく名品に近づけていこうとします。そういうことをずっと繰り返してきたので、私は今では現物からだけでなく、上手な人が作った刀の押形(刀の上に紙をのせて輪郭を取って、そこに刃文を見ながら書いたもの)からも刀を作った際の火の加減が読み取れるようになりました。
 ただ写真や押形からもある程度は読み取れますが、やはり現物から読み取れば読み取るほど、しかも手にとって間近に何度も読み取れば読み取るほど、実際に近いものが読み取れます。今回、薬研藤四郎は現物がないので、現存するほかの藤四郎をつぶさに見ることで推測したかったのですが、名刀であればなおさらなのですが、現在、国立博物館や美術館では刀をほとんど手に取って見せていただけない状況で本当に残念です。現物を手に取って、しかも拡大鏡を使って覗きこむようにして何回も何回も見ることでいろいろなことがわかるのですが、ガラス越しに見ているだけではいささか心もとなく、不足感がぬぐえません。ただこのお話をいただく前に、藤四郎の現物を手にとって見る機会があり、その際の記録が大変参考になりました。

<形のイメージを作る−木型の制作>
 薬研藤四郎の資料はほとんどないのですが、一番の資料は絵図面です。光徳刀絵図(秀吉の刀剣収集の相談役、刀剣の研師、刀剣鑑定の第一人者であった本阿弥光徳による全身押形集)に、「やけん」と平仮名で書いた絵図面があり、それが八寸三分という長さです。他の現存する藤四郎をみてみますと、庄内酒井家の信濃藤四郎が八寸二分で薬研藤四郎に一番近い形です。一分しか違わないんですね。今の単位でいいますと薬研藤四郎は三ミリくらい信濃藤四郎より長いんです。信濃藤四郎は非常に大切にされたようで、研ぎ崩れとか研ぎ減りが少ない健全な姿(日本刀では形のことを「姿」といい、姿が美しいとか、姿に品格があるなどといいます。)をしていまして、茎(なかご)の調子も非常に美しい状態で保存されています。それに加えて、私は何年か前に庄内酒井家の当主から実際に信濃藤四郎を手渡されて拝見したことがあります。その時の記録もありますので、信濃藤四郎をお手本にして長さを八寸三分に伸ばして木型を作りました。幅も信濃藤四郎よりももう少し、二ミリくらい出して、それに伴って重ねも信濃藤四郎より少し厚くして全体のバランスをとりました。その木型をもとに、立体のイメージを自分の中で固めました。

<素材となる鋼の鍛錬>
 そうして形のイメージができましたので、次に素材となる鋼(はがね)の鍛錬に取り掛かりました。解説を読みますと、粟田口藤四郎吉光は、非常に細かい地鉄(じがね)で、地沸(じにえ)という焼き入れによる金属の組織が変化したものが厚くついて、いわゆる梨子地肌を呈していると書いてあります。非常に小板目が詰んで細かい地鉄で、一見すると無地にみえるというような解説もあります。ところが信濃藤四郎、それからその他にもう一回、藤四郎の現物を手に取ってみる機会があったのですが、現物を手に取ってよく見てみますとそれほど細かい鉄ではないんですよ。割合大きな板目が底に沈んでいるのも見えます。東京国立博物館の厚藤四郎も今データで取り出せるのですが、七寸くらいの長さのものを大きく拡大してプリントアウトしてもらうと、かなり大きな板目、加えて綾杉肌がはっきり見て取れます。今回京都国立博物館の「京のかたな」展に展示されている藤四郎をみても、ちょっと肌だったようなのもあれば、目が詰んだのもありますが、はっきりとした綾杉でないにしても、ゆったりとした流れた肌、うねった肌模様が見て取れます。他の藤四郎も写真で見る限りそういう肌を共通して持っています。それが藤四郎らしさの見所になる彼の技術の結果だと思うんですね。藤四郎の肌目をみると、何回も何回も鍛えて細かく詰まらせた地鉄ではないということが読み取れるんです。
 私が師匠から習った今までのやり方というのは、下鍛えを八回から十二回、伸ばしては折り返してくっつけてというのを繰り返して、それを細く伸ばして組み合わせて、今度は上げ鍛えを八回くらい、折り返し鍛錬をするという、非常に細かくなる作業でした。そうするとほとんど無地になってしまいます。そのまま焼き入れをしても鉄が細かすぎて藤四郎にみられるような変化のある刃にならなくなってしまいます。今その辺で買う鉄というのもそうですが、非常に細かく詰んだ組織を持っています。ところが古い時代の刀で廃棄するような刀ですが、それを折ってみますと、木とか竹を折ったようにざっくり折れてきます。折り返し鍛錬の何枚もの層がお互いからみあっていて、つまり完全に密着していません。それが研いだときに肌模様になって表面にあらわれてきます。隙間の多い鉄が古い日本刀の鉄なんです。そこに焼き入れの効果によって沸(にえ)という細かな粒状の結晶が発生し、研ぎによる乱反射で非常に美しく目に入ってきます。それが藤四郎の場合は、針の先で突っついたくらいの細かさでびっしり厚く沸の粒が地鉄についていて、沸映り(にえうつり)という現象を呈しています。ですから隙間のある地鉄を作らなくてはならないんですね。
 鋼というのは面白いもので、手をかければかけるほど劣化していきます。刀というのはほかの美術品のように一ヶ月も二カ月もあるいは何年というように長い時間をかけてまとめあげていくものではありません。極端なことをいうとなるべく手をかけないようにしなければいけない。何回も火にかけるよりは少ない回数でまとめる方が、鋼としては非常に丈夫なものになります。
 現存する吉光の肌を実際にみると、たぶんそこまでは何度も鍛錬していないだろうということで、今回、薬研藤四郎の再現にあたっては、下鍛えを三回、それを板状に伸ばしたものをまた組み合わせてまとめて上げ鍛えを三回、折り返し鍛錬し、都合六回、半分以下の回数でまとめました。なるべく密着しないようにくっつけなくてはならない。非常に矛盾していますが、それを考えながら鍛錬しました。
 ただ研ぎ上げるまでは、鍛錬した肌がどのようになっているかわかりません。おそらく細かくなって、少し板目肌になっているはずだという前提で仕事を進めていきました。

<火造り>
 そのように鍛えたものを、一本だいたい五十匁(もんめ)くらい(1匁=3.75gなので約190g)に切って六本作りました。そして切先(きっさき)を尖らして、茎を絞り込んで一本一本短刀の形を作っていきました。火造りという作業です。大きめに作って削ればよいのですが、削るというのはもったいないことなんです。叩いて伸ばして所定の目方のものを所定の大きさまで伸ばすというのが鍛冶屋の仕事です。また図面を引いて正確に図面通りにやると線が固くなってしまうので、私の場合は図面は引きません。
 短刀というのは平造りが主で、鎬の線がなく、横手の線もない。つまり刃区(はまち)からずっと切先まで全部曲線でできています。そうすると同じ人が同じ目方に切ったものを同じ形に作っているつもりでも、一本一本微妙に違ってきます。いい姿にまとまった短刀もあれば、いまいちなもの、ちょっと伸ばしすぎたもの、幅が絞り足りなかったもの、いろいろなものができて、六本そろいました。

<焼き入れから完成まで>
 次に焼き入れになりますが、焼き入れというのは火の中に入れて赤くなったものを、水に入れて急冷し刃先を固くするという作業です。吉光の刃文というのは、ご存知のように、はばき元に小互の目(こぐのめ)をそろえて、その先は直刃(すぐは)になって、帽子(ぼうし)が小丸に返ると、解説にはそう書いてあるんですが、案外こうピーンとした直刃ではないんですね。少しほつれたり、刃の中に足が入ったり、小互の目が入ったり、葉(よう)が飛んだりという、そういう心地よい変化のある直刃です。帽子も、小丸にきれいに返る帽子というのは吉光には案外少ないんですよ。小丸にきれいに返った美しい帽子もありますが、後藤藤四郎のように火炎状に崩れたものもあり、信濃藤四郎の帽子も少し返りが固い感じです。ただ研ぎによるきれいな刃取りをしているので、そういう風に見えるだけなんです。
 また光徳刀絵図の薬研藤四郎をみますと、吉光にしては刃文の幅が広い、広直刃に近い刃文に書いてあります。形も割合がっちりしているので、あるいは広直刃だったのかもしれません。光徳刀絵図は押形ではなく絵図面なので本当に広直刃だったのか、それとも図面を書いた人がそう書いたのかわかりませんが、ほかの藤四郎の絵図面と比べてみても薬研だけが少し刃文が広くなっています。ただ姿とのバランスをみると少し刃幅が広すぎるかなと私は感じました。広直刃にするとちょっと吉光らしさが少なくなるのではないかということもあったので、信濃藤四郎を基準にして刃幅を絵図面より少し狭くして設定しました。
 六本とは別に一本試作品を作り、どのくらいの温度が自分の作った地鉄に合うのかということを検証してみました。元の方の温度を少し高めにとって先の温度を逆に低めにとって、それで焼きを入れてみるとだいたい見当がつきます。そうすると元の方がやはり高すぎて、先の方が低すぎるんですね。ちょうど真ん中くらいが、非常にいい刃が入りました。その結果、あの辺の色なら、その地鉄は自分の思う方向に反応するというだいたいの見当がつきました。
 理想的なのは一番いい姿に仕上がったものに、一番いい刃が入れば何の問題もないんですが、ご想像のとおり、えてしてそうはなりません。実際やってみますと、どれがどれだかわからない状態で焼かざるを得ません。というのは刃区から上、全部土を塗るんですね。焼刃土(やきばつち)といいます。焼刃土を塗ることを土置きあるいは土取りといいますが、この土取りで刃文をコントロールします。刃先を薄く、地の方を少し厚く塗って、その境目が刃文になります。焼刃土を塗る前だと姿のよしあしがわかりますが、塗ってしまうと全部同じに見えます。従って、いい姿のものに気合を入れて焼きを入れるという余計なことを考えなくてすむという面もあります。
 焼き入れというのは、時間的には短く、赤めて冷やすまで五分もかかりませんが、刀鍛冶にとっては非常に重要な瞬間です。それは鋼に命が吹き込まれる瞬間で、一秒早くてもだめ、一秒遅くてもだめなんです。地鉄の感度、焼き入れの温度、その温度に保持している時間、水に入れる時のわずかのタイミングの違いなどで、刃文というのは様々に変化します。様々な条件が合うと見事な刃文になるのですが、ただそれもやってみないとわかりません。一本だけで仕上げるというのは至難の技です。だから何本も何本も作るのが本来の刀の作り方です。今回は六本しか作らなかったのですが、その中でも最初に焼きを入れたのと、最後に入れたのとでは違ってきています。一本ずつ焼きを入れて刃文を見てこれならいけるなというのと、ちょっと過ぎたかなというのができて、その中で姿と刃文の調子で総合点の高いものを二本選びました。それを二本並行して研ぎ、鞘(さや)を作り、はばきを作りと仕上げていきました。仕上がった段階で、私が今師事している山武士先生に最終的に見ていただき、さらに、姿と地鉄と刃文の調子の平均点の高い方、完成度の高い方の押形を取っていただき、今回奉納の作と決まりました。

<出来上がり>
 そんなことで今回、一層藤四郎吉光らしいものを目指して作刀しました。藤四郎吉光の名品が、今回京都国立博物館に数多く出ていますが、それぞれよくみると一本一本違います。姿が違い、茎の形も振袖があったり真っ直ぐなものがあったり切られたものがあったりします。銘文の「吉光」にしても、同じ形の銘はありません。細い鏨(たがね)で伸び伸びと素晴らしい字を切っていますが、少しずつ書体が違ったりしています。ただ並べてみますと、その中に流れる共通の藤四郎吉光らしさ、作風が出ています。その雰囲気が薬研藤四郎の再現刀の中に少しでも流れてくれれば良いということで作刀しましたので、よく見ていただくと、下半分に、そこまではっきりは出ていないのですが、特に単眼鏡をお持ちの方は、大きな板目が底に沈んでいるのを確認できると思います。
 加えて刃区の上、ずっと地沸の厚い層が広がっています。地沸による沸映りという現象が、ガラス越しでもかなり見えます。これは吉光にもみられるものですし、同時代の他国の短刀にもみられるものです。そのつもりでじっと見ていただくと、直刃のちょっと上に黒っぽい所があって、その上に、ふわっと霞のような白い、もやもやとしたものが見て取れます。これは焼き入れの効果によって地沸が発生して、それが白っぽく、細かい粒々がびっしり連なった状態で、結果的には一見梨子地肌に見えます。その辺を注視していただければ、吉光らしさと共通する所を感じていただけるものと思います。
 刃文については納得できない部分もありましたが、帽子は小丸に返った上品な形のものに焼きあがりましたので少しホッとしました。
 鋼の性質というのがあるのですが、鋼の純度については満足できるものとはなっていません。鋼というのは鉄と炭素の結びつきです。鉄と炭素だけが結びついていれば一番いいのですが、鉄は色々な元素を取り込みやすい金属です。一番害になるのがリンと硫黄です。害になる金属が混じるといくら手をかけてやっても刃先がぼろぼろこぼれるような鋼になってしまいます。幸いに今回はそこまでにはならなかったのですが、今の鋼の作り方では他の色々な元素が微量に入り込んでしまうのではないかと思います。ですから鎌倉時代にみられるような純度の高い青く澄んだ地鉄というのは、今はなかなか手に入りません。
 銘は、研ぎ上がってから切ったのですが、緊張しました。ただ躊躇していると、あの伸びやかな線が出てきません。崖っぷちで背中を押されて飛び降りる感じで切りました。その辺が難しいけれど面白かったですね。
 結果的に自分で見ていろいろ考えてみますと、いまいち攻めきれなかったという思いはありますが、自分の力の限界がその辺なのかもしれません。自分の頭の中では次はこうしてやろう、ああしてやろうというのはありますので、また次の機会をとらえてやってみたいと思います。

2 本来、刀とは何か

<武器としての刀>
 刀というのは基本的に戦の現場で使われる武器です。武器として一番考えなければならないことは折れないことです。相手も刀を持っていますから、折れたら困るんですね。絶対折れないことを考えて刀鍛冶は作刀してきたと思います。
 もう一つは量産するということです。何万人という兵士がぶつかりますね。一人一本にしても何万本も必要になります。量産品というとレベルが下がるような思いをされるでしょうが、打ち合いだしたらどんな名刀でもかたいものにあたれば刃がこぼれます。そう考えると一人一本二本じゃ足りません。黒澤明監督の「七人の侍」という映画がありますが、戦闘が始まる前に山の斜面に刀を何本かさしておいて、刀がだめになると走っていってそれを引き抜いてまた戦う。たぶんあれはかなり実際に近い状況だと思います。
 映画の中で志村喬さんが弓を射る場面があります。考えてみますと刀というのは、相手に近い距離でないと使えません。近いところから一歩踏み込んで初めて相手に届きます。そして、自分の刀が届く間合いに入るということは、相手の刀も届くということです。そういうことを考えると、まず遠い距離から矢を敵に向けて放ち、近づいても相手の刀の届かない距離から槍で攻めるのが有効です。そうすると刀というのは間合いが迫ったときに持ち前の機能を発揮できるもので、間合いの遠いときの主な武器は弓であり、槍であり、更に古い時代には石も武器として用いられました。

<美しく研ぎ上げられた日本刀>
 日本刀というのは武器として命を絶つという非常にすさまじい使命を持って生まれたものです。しかし日本刀だけがなぜあんなに美しいのでしょうか。
 美しく研ぎ上げられた日本刀は爪や固い紙でこすっても傷になります。そのくらい繊細なものです。刃先の焼きが入った部分は、鉄を断ち切るくらいの強さを持っていますが、逆に焼きが入っていない地鉄の部分というのは本当に柔らかく、刃物で削れます。刀身に彫がある場合がありますが、あれは焼きを入れてから、たがねで彫り、きさげという刃物で削り、中を砥石で磨いて仕上げます。ですから刀は非常に繊細な刃物だといえます。
 今我々が刀を見ますと、表面にいろいろな模様がありますが、機能的なものを全うさせるために、色々な技術が使われた結果として非常に美しい肌模様となっているんです。美しい肌がなぜ称賛されるかというと、そういう美しい肌模様ができる過程の、折り返し鍛錬や焼き入れなどが、地鉄にあったバランスの取れた仕事だったという結果のあらわれたものだからです。ですから昔の人は、いちいち刀の試し切りをしなくても、そういう表面にあらわれた模様を見ることによって、刀の耐久力、折れるか曲がるかと、そういうものを見極める目を持っていたと思います。
 それがやがて、刀の美しさの方に目がどんどん行ったと思うんです。あそこまで細かく研がなくても、刃先さえ鋭くしておけば、刀というのは切れます。ところが日本人は直刀の時代を含めるとだいたい二千年くらい刀剣に関わってきた時間がありますが、二千年くらい前、あるいはもっと前からかもしれませんが、日本人に限って刀を美しく研ぐようになりました。非常に隙のない線を出したり、地鉄でも地肌でも非常に繊細な砥石の使い方をして美しく研いできているんですね。武器としては必要のない研磨です。他の国の武器には、日本刀のように緊張感のある線、むらのない肉置(にくおき)、表面の美しい地肌、刃文、それを表現するような美しい研ぎ、仕上げをされたものはありません。外国の刀は実際に使える段階ですべて止まっています。地肌も見えません。刃文もありません。武器としてはその段階で十分なんです。
 ですから、戦後刀が美術品になったから美的に美しく研ぐようになったのではありません。かなり昔から日本人は日本刀を美しく研いできています。それはなぜだろうということです。かなり時間もかかるし手間もかかります。研ぎ師さんというのは鍛冶屋さんとは全く違う感覚がないとあそこまで研げません。鍛冶屋さんの感覚というのは、まず気が短い、せっかちである、あきっぽい、これが実は大切な要素です。というのも鉄が赤んだり冷めたりする、それを上回るくらいの気の短さ、せっかちさ、飽きっぽさがないとうまくいきません。私は鍛冶屋さん向きに産んでもらったと思います。今まで五十二年ほど鍛冶屋さんをしていますが、いまだに非常に面白い仕事だと思っていますし、楽しいことをして遊んでいるようで、仕事という感覚が少ないんですよ。ですからとても幸せだと思います。
 話が脱線しましたが、日本刀を研ぐには大変な手間がかかります。荒研ぎから始まって、地肌が見える直前までは、砥石を下に置いて、刀を動かして研ぎます。そこまでが下地研ぎです。下地研ぎで十種類くらいの砥石を使います。ここまででも刃文は見えますし、地肌も見ることができます。そこから先が仕上げ研ぎといって、今度は、刀を下に置いて、砥石そのものを葉書の半分くらいの厚さに薄く削り、マッチの軸くらいの大きさに細かく砕いたものを、刀の上に十個ほど置いて、刀の表面に水で貼り付けておいて、指の腹の弾力を使って研いでいきます。とても特殊な研ぎ方をします。そうすると地肌が浮き上がってきます。非常に繊細な仕事です。その時、ほこりが少しでもあると、それが砥石とともに引っ張られて地鉄に傷をつけてしまいます。我々が仕事着のまま研ぎ師さんのところに行くと嫌な顔をされます。鍛冶屋が来たからひけ傷がついて嫌だなと。仕上げは今日はもうやらないと。ですから私らも遠慮して研ぎ師さんの仕事場には入らないようにしています。そのくらい繊細な仕事で今我々がみる美しい研磨というのはなされているんです。ただ研ぎ師というのは、名前が残りません。今は残りますが、江戸時代の名刀を研いだ研ぎ師の名前は残っていません。もう一つは仕事そのものも残りません。次に研いだら前の仕事は残らないんです。でも非常に重要な位置にいるのが研ぎ師さんです。
 ちなみに仕上げ研ぎに使う砥石は、京都でしか取れません。人造ではできませんし、海外でも取れません。京都でも今は亀岡市と右京区の二箇所のみです。

<御守りとしての日本刀>
 では、なぜ実用にあまり影響のない必要以上の研磨をしたのか。それは刀が日本人にとって単なる武器ではないからです。美的要素を十分に持っている美術品でもあります。しかし、日本刀は美的要素だけを目的として作られたものではなく、機能を十分に考慮されて作られています。刀は非常に高価なものですよね。何億円とするものもあります。でも資産価値として刀を買うのかというとそうでもありません。それでは日本人にとって刀とはいったい何なのか。私はそのことをずっと考えてきましたが、日本人にとって刀は御守りなんだと思います。日本刀はとても大事な、直接心に響き、深いところで国を守り、家族を守り、人を守る御守りなんです。もちろん敵を切って守るという守り方もありますが、そうではなくて、二千年以上の刀剣の歴史の中で、日本人の精神を支える、そういう役割を日本刀に求めて我々の先祖は刀を完成させたんです。刀を身に付けること、刀を傍に置くこと、心の中に思い浮かべることによって大きな力で自分が守られるという考えが昔からあります。他の国の武器と決定的に違うのがそこなんです。他の国の武器がダメだということではないですよ。誤解しないでください。刀は御守りであるという考えに基づき、日本人だけが刀をあそこまで美しく研磨するんですね。刀はそれを持つ人を大きな力で守るものなので、一点の曇りもなく研ぎ上げられなくてはならないんです。
 古墳から刀が出土しますが、研ぎ上げた状態で埋葬されています。死者を守るというそういう意識でおそらく埋葬しているんですね。その時代から刀が大きな力で人を守ってくれるという考えがあったと思います。
 大東亜戦争の時、飛行機に乗る兵士も、軍艦に乗る兵士も、陸を行く兵士もみな軍刀として刀を持っていきました。爆弾が使用される近代戦では、刀はあまり役に立ちません。白兵戦となったときにしか、その機能を発揮できません。しかし日本人は刀をお守りとして持って行きました。持つことによって大きな力で自分を守ってくれると考えたのです。刀を帯びることで勇気が湧いてきます。そして自らの命をもって国を守ろうとする、そういう思いになって、彼らは国を守って散っていきました。そして我々の今があります。
 東日本大震災の少し前、習志野の第一空挺団の若い自衛官から刀の注文がありました。「どんな刀がご希望ですか。」と聞いたら、「がっちりした強い刀がほしい。」とのことでした。「刀は近代戦では役に立ちませんよ。」と話したら、「御守りなんです。持っているだけで力強く感じるんです。」と言います。それが本来の形です。彼は知らず知らずのうちに自衛官とは何かということを真剣に考えたと思います。国を守る、自分の命を張っても国を守るとの覚悟を感じました。第一空挺団というのは、東日本大震災で、福島の原発が切羽詰った状況に陥った時、原子炉を冷やすために上空から水を撒いた部隊です。上空は放射能の線量が非常に高いそうです。もちろん鉛の板でがっちり防御しますが非常に危険です。命に危険があるので志望者を募り、命懸けで志願した若い自衛官達がヘリコプターで福島の上空まで水を撒きに飛んできてくれました。私は福島県民の一人として誠に感謝しております。

3 刀への向き合い方

<日本人の自然哲学>
 日本人は、命の尊さを四季の変化の美しい日本列島の自然の中からしっかり学んできた民族だと思います。その考えを代表しているのが神社です。いわゆる神道です。神域に来て、お社に向かって手をあわせることで、気持ちが安らぎ、大きな力によって守られるという考えが、昔からあるんですね。そういう形で日本の神々は日本人を守ってきました。今は神社も宗教法人とされていますが、本来の意味で神道は他の宗教とは異なると思います。キリスト教もイスラム教も一神教ですので、全てのものに神が宿るという神道とは異なります。神道の本義とは清く明らかなるという事で、静かな落ち着いた透明感のあるものが神道であり、それはまさに日本の自然そのものです。八百万の神といわれるように、そこらじゅうに神様が存在し、その中に人間も自然の一部として生かされているという考え方です。今の方向とは全く逆です。今は自然保護だとかいって、いろんなことで自然よりも上からの視線でみています。昔の人はそうではなく、自然の中に生かされていると考えました。それは、日本人がこの日本列島の美しい自然の中から学んだ一種の自然哲学だと思います。それが神道だと思います。私が刀をもう五十何年か作ってきて、刀とは何ぞやと考えてきた中で気が付いたのが、神道もそういうことなんだろうなということです。そして気が付かないうちにそういうことを感じ取っているのが今の若い女性達だと思います。

<刀に対する本来の向き合い方>
 今、刀が御守りであるという意識からほとんど離れてしまっています。刀を買ってはそれを審査に出して、格付けが上がったらそれを買った値段より高く売って、その差額でまた次の刀を買う。そういうことを繰り返して自分は愛刀家だといっている人達がいますが、考えてみれば、そういう人達が問題にしているのは刀の値段だけなんですね。ですから、そういう人達は、愛刀家ではなく愛金家だと思います。
 ところが今の若い女性達は違います。今まで女性が刀を見るということはあまりなかったことです。そのような中で、ゲームから刀剣女子と呼ばれる人々がでてきて、それが全国に、さらに海外にまで広がっています。鶴丸国永の写しを作った時以来、私の中で非常に気になっている言葉は「美しい刀を作ってくれてありがとうございます。」という、いわゆる刀剣女子と呼ばれる皆さんの言葉です。今まで直接注文された方から「刀を作ってくださってありがとうございます。」とお礼を言われたことはあります。しかし刀を見てくださった方からお礼を言われたのは初めてです。たぶん今までの古い刀を扱っている人達は、女子供が何が刀なのか、たかがゲームではないかと、上からの視線で馬鹿にしていると思います。でも私にとっては皆様方の刀に対する思いが本物だと思います。
 今回も、全国からまた海外からも大勢の方が来てくださり、「薬研藤四郎の再現刀を作ってくれてありがとうございます。」という言葉と共に涙を流してくれます。それは非常に純粋な気持ちです。真摯な瞳、真剣なまなざし、それをひしひしと私は今感じています。ものができたときももちろん嬉しいですが、それはものと私との間のつながりだけです。ところが今回は、刀を介して、刀を見てくださる大勢の方の思いを感じることができました。ものを作る人間にとってこんな悦びはありません。これだけ大勢の人が、私の作った再現刀を整然と並んで、礼儀正しく見てくださり、お礼の言葉を言ってくださる。その姿そのものが美しいと私は思いました。そのことを師匠の山先生に話したら、それは刀がそうさせるんだとおっしゃいました。刀を前に対した時に、素直にそれを受け止める人は姿勢を正し、いずまいを正し、思わず襟を正して、そうして刀に向かうんだと。今までの刀を扱う人達の中にはそういう思いが少なかったのではないかと思います。そのような気持ちが本来の刀に対する気持ち、向き合い方だと思います。
 専門的なことは何もいりません。刀を見て美しいと感じる心さえあればいいんです。ただ刀を見て感激して、感じた純粋な思いを伝えてください。「日本刀ってすごいんだよ。」その一言でいいんです。真剣に刀と向き合ってください。必ず刀が教えてくれます。刀が守ってくれます。そしてその思いはどこからくるんだろうと疑問を持ったら、刀のことを勉強してください。たくさん名品を見ることが一番勉強になります。本物を見てください。何か教えてくれます。その事によって心を育ててください。そうすると専門家以上に刀を深く受け止める気持ちが育ってきます。刀の本が今たくさん出版されていますが、今はいい写真がたくさん掲載されていますので写真は参考になります。ただ間違いのある本がとても多いので、できるだけ文章、説明は読まないでください。本として活字になって出版されてしまうと、間違った説明が本当のことと思われてしまうのは困ったことです。
 刀を作る際は、一切のごまかしができません。非常に素直な気持ちで鉄に向かって鍛錬していかなければなりません。神社と同じように我々の仕事場にはしめ縄がはってあります。神棚があります。人に対してではなく、自らに対する結界です。ドロドロした気持ちは刀を作る現場にあってはいけません。俗の世界から自分を切り替え、純になって入らなくてはならない。物をみて涙する純粋な気持ちで我々も刀を作っています。ただその気持ちをそのまま迎えてくださるということは今までなかったことです。自分なりに作った刀と自分の思いが、そのまま皆さんに通じているということが本当に嬉しいんです。大事なのは、そういう思いで刀を見て、刀とは何ぞやということを考えてほしいということです。
 日本人は刀をお守りとして美しく研ぎ上げました。もちろん戦の現場で使うということもありますが、それも含めて日本刀が自らの命を守り、国を守り、日本という国を正しく存続させるための大きな力になっていると考え、日本人は日本刀を大切に伝えてきました。
 ところが困ったことに、そういう考えが今、ほとんどなくなりつつあります。

4 本質を見失った日本刀

<日本刀の危機>
 日本は昭和二十年八月十五日をもって大東亜戦争に敗れました。戦後、進駐軍が来て、日本中の武器を抹殺するべく集めました。当然刀もその中に入っていました。集められた刀の一部は、ガソリンをかけて焼かれたり、束ねて海に放り投げられたり、福島でも阿武隈川に何束も捨てられたということを聞いたことがあります。
 そうして刀がなくなろうとしたときに、進駐軍に対して、日本刀は単なる武器ではない、とても美しい美術品なので何とか存続させてほしいということを働きかけた人達がいました。私の刀の先生の山先生のその先の先生、本間先生と佐藤先生が中心となって刀を守るべく立ち上がりました。あくまでも個人の立場としてです。その時、国は何もしませんでした。もちろん敗れた国ですから、進駐軍のいうことをはいはい聞くしかなかったのもわかります。あの時代に刀は美術品なので残してくださいといったところで、全く文化の違うしかも敵の人間に通用するかどうかわからなかったはずです。しかし命がけで両先生がそれに立ち向かいました。その時、持参したのが、厚藤四郎です。今、東京国立博物館に収蔵されている国宝の厚藤四郎、その短刀の美が敵の人間に通用したんです。なるほどこれは美しいものだ、ほかの国の武器とは全く違う、そこで美術的価値のある日本刀については、例外として所持を認めることにしようということで、そこから戦後の刀がスタートしました。

<伊勢神宮の遷宮と日本刀>
 もちろんしばらくは刀を作ることはかないませんでした。しかし昭和二十六年から美術的に価値のあるものに限って制作も許可されることになりました。そのきっかけとなったのが、伊勢神宮の遷宮です。六十四本の直刀(奈良時代形式のまっすぐな刀)を、神さまのご料として、毎回遷宮の度に新しく作り替えます。遷宮の際には、刀だけでなく神さまの調度品全てを作り替えます。二十年に一度作り替えることは、それぞれにそれを作る人達の、世代交代にちょうどいい長さです。最初は親が仕事に携わって、二十年後には子供がそれを手伝う、さらにその二十年後には子供が主になって親がそれを手伝い、もちろん孫もそれを手伝う。そして二十年というサイクルで技術がしっかり受け継がれてきています。

<例外として美術品となった日本刀>
 現在、刀は美術品として我々も制作を許可されています。またどの刀屋さんをみても、美術刀剣と看板に書いてあります。この美術品というのは刀を守るためのいわゆる隠れ蓑だったはずのものですね。ところが、刀を作る現代刀匠達のなかで、それがだんだん、だんだん、本質とすりかわってきました。美術品としてしか通用しない刀を作るようになってしまったんです。逆に裏付けを失った刀は、その肝心な美術品の美のレベルがどんどん下がってきています。やっている本人は気がついていません。傷欠点のない、面白くもなんともない、そういう刀を作るのが本当だと思ってしまっています。特に若い人達は、はっきりいって刀を勉強していません。刀を作ることそのものはたぶん勉強していると思います。我々よりも上手な技術を持っていると思いますが、刀が本来何だったのかということの勉強が全くされていません。ですから非常に危うい刀が出来上がってしまいます。それは歴史も証明しています。

<江戸時代の教訓>
 徳川時代、慶長四年から徳川幕府が誕生し、世の中が平和になりました。そうすると室町の戦国時代のような大量の武器をつくる必然性がなくなってきます。当然、刀鍛冶は商売になりません。その時に、徳川幕府は日本刀を武士の象徴として、武士は大小を差すようにという決まりを作り、そのお蔭で刀鍛冶も生きる道ができました。刀鍛冶は大量の刀を作らない代わりに、一つ一つ個性的な刀を作るようになってきます。そうすると一見してこれは国広だ、これは虎徹だとわかるような非常にわかりやすい刀になってきます。ところがそういう風な刀になればなるほど、さっき言ったような刀の本質がどこかにいってしまう。その当時、日本鍛冶宗匠といって刀匠の一番トップであった刀匠が作った刀が、決闘の現場で木刀で叩かれて折れています。木で叩かれて折れるものはもう刀ではありません。それから古い記録の中には、馬から落ちた時に腰の大小のどちらかが鞘の中で折れたとか、犬を棟打ちしたらぽきんと折れたという話が一部にみられるようです。

<現代の日本刀が抱える問題点>
 まさに今もそれを繰り返しています。そういうものは実は日本刀ではありません。いざという時に守るべきものを守るだけの力がないんです。日本刀は単なる武器ではありませんが、武器として十分機能する強さを本来持っています。万が一の時は鉄板でも切り裂きます。
 古い刀は実際に使っても非常によく切れます。よく切れるどころかまず折れません。日本刀とはそういうものなのです。古い刀を無理やり折ろうとすると、木や竹を折ったように中がザクザクになる。中がザクザクになるということは折り返し鍛錬の時に完全にくっつけてないんですよ。ということは、表面にも傷が出るんです。ほとんどの古い刀には傷があるんです。ただ傷が気にならないほどほかの部分が美しいのであまり問題視されないのです。
 しかし新作刀といわれる、今我々が作る刀の場合は、傷があると商品になりません。返品されてしまいます。またコンクールでは傷があればそれだけで減点されてしまいます。そこでほとんどの刀鍛冶は傷のない方向で作ります。しかし傷をなくす方向に仕事を進めていくと、本来の日本刀から大きく離れていってしまいます。それがコンクールでいい成績をもらえば、それで事足りるとしてしまう今の新作刀の現状です。そうすると簡単に折れてしまう刀になりかねません。極端な話、家の中で、新作刀を振り回していて、蛍光灯のひもの先にぶらさがっているものにぶつかって、刃がかけたということもあるんですよ。熟慮すべきことです。
 しかし本当の刀を作らなくてはいけませんよといったところで、コンクールで成績が落ちれば、藤安のいうことを聞くと傷だらけのものしかできないよということになってしまう。ある時から、私はそういう現状から離れて自分の道を歩み始めました。
 人間国宝だった私の師匠(故宮入行平刀匠)は、十分な技術を以てしても、なぜ刀が折れることがあるのかと考え、時に私のような弟子にも意見を求めておりました。今、想い出してみると、師匠の偉大さをしみじみと感じさせられます。

5 ゆがんだ方向に来ている戦後の日本

<日本人の精神を支えてきたもの>
 戦後、進駐軍が日本に上陸したときに、日本兵の強さの秘密は何だろうと徹底的に研究しました。その結果、日本人にはその精神を支えてきた自分の命よりも重いものがあるということに気付いたのです。そして、日本人の精神を支えてきたものを全てなくす方向で、日本の占領政策が始まりました。日本刀もその大きな一つです。そして武道です。さらに教育勅語による陛下のお言葉です。天皇制もその一つです。戦後の占領政策によって、日本はそういうものをすべてなくされました。

<武道>
 日本の武道、これは日本人の精神を支えてきたもので、決してスポーツではありません。ところが、武道も今はほとんどスポーツになっています。オリンピックの柔道でも技をかけた瞬間に審判の方をみる、自分に旗が上った瞬間にガッツポーズをするという行為が、日本人選手にもみられます。武道というのは負けた相手、命を奪った相手に対して尊敬の念を持つものです。命がけで戦った相手を尊敬するのが武道です。惻隠の情という言葉があるように、勝てばいいのではありません。命を奪う以上はそれなりの敬意を払う。それが日本人の戦いに対する気持ちです。正々堂々と名乗りをあげて、自らの身分を明らかにして立ち向かうのが武道です。
 軍記物を読みますと、物語の中にそういう場面がたくさん出てきます。熊谷次郎直実が敦盛と対決した時もそうです。敦盛が海へ逃げようとしたときに、熊谷次郎直実が招いて、「敵に後ろを見せるとは卑怯なり」ということで、いざ対してみたら自分の息子と同じくらいの年頃だった。これを殺すに忍びないので、早く逃げろと言ったところ、敦盛もそういうわけにはいかないと言って、結果的に首を討たれるのですが、そういう日本の物語を読みますと、色々なところに日本人の心の気高さ、美しさ、優しさが感じられます。そこに介在したのが日本刀です。

<教育勅語>
 明治天皇が人間とはどう生きるべきかということをお示しになった教育勅語も、進駐軍によって廃止されました。今、教育勅語は軍国主義の象徴として全く顧みられていませんが、機会があったら読んでみてください。どこを探してもマイナスの要素はありません。日本人だけがこう生きなさいよというものではなく、「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」という言葉があるように、外国の人にこれを示しても決しておかしいことではないということも書いてあります。そして、共にそう生きましょうという言葉で結ばれている。日本とはそういう国です。ところが今、いろいろなことで、そういう国でなくなりつつあります。

<神社>
 神社も、あちらこちらで非常に寂れた状況になってきています。小さな神社は大変だと思います。日本人の心の中に自然の中に生かされているという思いがあり、その象徴として神社があるということすらわからなくなってきています。

<日本刀>
 刀を親の形見として受け取ったのはいいけれど、どうしたらいいかわからないので処分してくれと言った人がいました。刀を処分してくれということほど悲しいことはありません。しかし、日本刀を処分するという気持ちになってしまったこと、それが悲しいことであるということにその人も気がついていないのです。今、国の方向がゆがんでいるのに、それが正しい方向だと思わざるを得ない状況におかれていることに、何の不審も感じなくなっています。
 現在は、刀は非常に危険なものだからなるべくそばに置かないようにしようということになっています。我々が少年のころ、社会党の委員長が少年に刺されて死んだ事件がありました。その頃から青少年に刃物を持たせないようになったのです。そうすると刃物の怖さも、刃物による痛みもわからないまま、子供たちは大人になってしまいます。刃物を扱ったことがない人は、刃物の怖さを知りません。自分で手を切ったことのない人は、相手にけがをさせても痛みを感じることすらわからないのです。

<職人がいなくなる>
 日本は刃物で色々なものを作ってきた民族です。木造建築にしても、素晴らしい木造建築があるということは、それを作り出した刃物があったということです。その優秀な刃物を作った鍛冶屋さんがいて、その鍛冶屋さんに材料を供給した鉄を作る人達がいて、それが全部つながっていました。今、それがずたずたになっています。職人はもう生きられません。我々刀鍛冶が使う炭も、木炭を焼くおじいさんがいなくなったら、それでおしまいです。最近まで私は、福島県の一番南にある白河というところで炭を焼いている八十五歳のおじいさんから炭を買っていました。その方が脳こうそくで倒れて、今は須賀川の二人のおじいさんが焼いた炭を買っていますが、この二人も私より年上です。加えて、東日本大震災の原発の事故で、福島の木材で炭を焼くことが今禁止されています。そんな状況なんですね。四十年くらい前に風を送るふいごを作る職人も絶滅しました。そういう風にどんどん職人さんがいなくなっています。京都という町は、いろいろな伝統的な手仕事がたくさんあり、それを支えてきた刃物屋さんもたくさんあります。特殊なのこを作ったり、一回しか使わないようなやすりを作ったり、用途に応じていろんなものを作ってきた細かい仕事がたくさんあった町ですが、それも今、次の代の人がいなくて、今やっている人で終わりというところがたくさんあります。

<公的機関に刀の専門家がいない>
 今、国宝として国から指定を受けている刀剣は百十何点ほどありますが、日本刀に関して教えてくれる大学はどこにもありません。国立博物館が全国に四か所ありますが、今、刀の専門家は一人もおらず、他の分野の専門家が刀も扱っているという状況です。その先の文化庁にも刀の専門家はいません。公的機関から刀の専門家がいなくなってしまったんです。国宝として指定し、日本刀はすばらしいものだといいながら、それを支える土台を作ろうとしていません。公的な機関、国の側に刀の専門家がいなくなってしまったということは大変なことですが、そのことに対する危機感もほとんどなくなってしまっています。「本を読んで勉強をしますから大丈夫です。」という人がいますが、本を読むだけでは、絶対に刀の勉強はできません。本物をしっかり見て、しかも系統立てて代表的な作を見て、基準を作らないといけません。

<責任を取らない国会議員>
 テレビで国会中継を見て腹立つことはありませんか。国会議員は、百年先を見つめて今を考えなければならない、本来、国家百年の計を考えて、今の政治を行わなければならない立場の人達です。それなのに前言を撤回したり、女房のせいにしたり、秘書のせいにしたり、責任をとるということがどういうことだかわかっていない人がいます。なぜそうなるかというと、それは精神的に刀を差していないからなんです。
 昔の武士がなぜ腹を切るかわかりますか。命を以て償う大きなものを彼達は持っていたんです。ですから、言葉も重く、行動もしっかりしていました。重い言葉、しっかりした行動の結果、間違ったら自らの命を以て責任を取る、そういうことです。腹を切る行為というのは、決して野蛮な行為ではありません。精神レベルの非常に高い人間でないとできません。日本という国はそういう国であったはずです。東アジアで植民地にならなかった唯一の国です。それは日本人がそういう気高い誇りと精神力を持っていたからです。そうして国を守ってきました。そしてこれからも日本人は国を守らなければなりません。それは美しい日本を先の世まで伝えることになります。是非、このことをどこか心にとめておいてください。そして何かあった時は、国とはどうあるべきかということを、日本刀から学んでほしいのです。

6 日本刀を正しい形で次世代に伝えるために

 
 最後に一つだけお願いがあります。日本刀は欠点のない美術品ではありません。武器でもない。金持ちの道楽による資産の対象でもない。お守りなんです。二千年以上にわたって日本人の気持ちを、心を、精神をしっかり支えてきたものが日本刀です。そういう風に我々のご先祖は日本刀を完成させてきました。それをどうか次の世代に伝えてください。
 私は刀鍛冶です。福島の立子山というところに仕事場があります。そこで刀を作っていれば事足りますが、それでは刀を次の世代に伝えなくてはという思いが伝わりません。私は、十九歳から刀鍛冶として刀の世界に入り、師匠にめぐり会い、刀が大好きで、師匠が大好きでひたすら刀を追いかけ、数多くの名刀を拝見し、刀とは何だろうと考え続けてきました。そして山武士先生、刀の本質的なものを広めるために刀剣文化研究所を設立された方ですが、山先生にめぐり会い、そういう中で育てられてきました。私には大きな力がついている、刀によって守られているという思いを日々感じてきました。まっすぐ曲がらない道を、細い道で茨の道でしたが、それを苦労とも思わず楽しんできました。
 私は刀を正しい形で伝えるために、この世に生まれてきたのだと思います。何とか正しい形で日本刀を次の世代に伝えないと、今ある刀もやがてはだめになってしまいます。これから作る刀も単なる美術品を作ったのでは困ります。それを伝えるために色々なところで講習会をしたり、鑑賞会をしたり、勉強会を開いたり、話してくれと言われればどこへでも飛んでいって話しています。今回、有難いことに神社の境内を借りて十日間、一日三回お話しする機会をいただきました。そこで、なるべく大勢の人に刀とは何ぞやということをお話してお願いしています。私は今、全身全霊で、あなた達に向き合っています。それは刀を正しい形で次の世に伝えたいためなんです。それは私が今習っている山先生の教えでもありますし、本間先生達が命をかけて刀を守った、そのことに対する思いでもあります。
 ですが人間の寿命は限度があります。私は十一月十日で七十二歳になります。いつかはわかりませんが、私もその瞬間まで頑張ります。あと三十年頑張るつもりでいますが、あと百年も二百年も生きるわけにはいきません。ですから、その先は今ここにお集まりの若い方々に、次の世代に伝えることをお願いしたいのです。刀はこういうものなんだと、日本人を守る、本質的にとても尊いものなんだということを伝えてください。命には限りがありますが思いは必ず伝わっていきます。
 二千年以上にわたって日本刀は、日本人の精神を支えてきました。今、私達は、古くは一千年近く前の美しい刀を見ることができます。つまりそれは、今我々が見ている日本刀を今の世にまで保管し、伝え、その時々に手入れをしてきた何万人もの人がいるということです。そういう人の思いが結晶し、皆様の気持ちを直接打つのだと思います。今、京都国立博物館でたくさんの藤四郎が展示されていますが、その陰には、薬研藤四郎のように消えていったもの、戦場でなくなったもの、火事で焼けたものなど、数多くの刀がなくなっているはずなんですね。藤四郎に限らず、室町時代までの刀は戦場で使われるものでした。量産されて消耗されるべく作られたものが日本刀なんです。その中で、今我々がこうして見ることができる日本刀は、その時々の人々の審美眼に合格したものであり、とても美しいものだ、これは使って消耗してしまうのではなく、後世に宝物として残そうという思いがこもったものであると思います。その陰になくなった刀が何千本とあったはずです。刀というものは理由があって残されているんです。
 今、日本には約三百万本の刀があります。まだまだ発見届ということで、新たに出てくる刀がありますので、もう少し多いと思います。明治の頃だと六百万本くらいありました。戦国時代にはどれくらいの刀があったのか見当もつかないくらいです。加えて、明との貿易で、何十万本という刀を輸出しています。ただ、その輸出した先の中国にはほとんど日本刀は残っていません。一千年近く前の日本刀が博物館や美術館で見られるのは日本だけなんですね。
 今、我々が古い刀を見ると、色々な思いが心の中に湧き上がってくると思います。それは感動であったり、喜びであったり、美しさからくる陶酔であったり様々ですが、見ることによってとても豊かな気持ちになると思います。これは日本人だけが受け止め感じるものではありません。外国の方でも、日本刀の美しさに触れると、限りなく日本人にものの見方、考え方が近づいてきます。日本が大好きになります。それは普遍的なものです。それをこれから先にも伝えていかなくてはなりません。後のことは知らないというのでは困ります。数百年先、数千年先にもその美しさ、気高さ、大切さ、誇りというものを伝えていかなければなりません。
 人間の手というのは三本ある人はいませんよね。重いものは片手で持てません。両手で持ったらほかのものは持てません。私は師匠から日本刀を通してそういう重いものを受け止めました。小さな身体で全身で受け止めたんです。ですからあとのものは持てません。興味もありません。名誉も名前もなくていいんです。日本刀への思いが皆さんに伝わるだけでいいんです。一生かけて追い求めるのに十分すぎる、それでも足りないくらい日本刀、日本人が作りだしたものは非常に深いものです。純粋なものです。そして美しいものです。
 正しい形で日本刀を次の世代、次の次の世代、次の次の次の世代に伝えてください。子供に孫に思いを伝えてください。そうすることによって、ゆがんだ国の方向が、必ず正しい方向に戻ります。もっともっと日本人の中に刀をしっかり受け止める気持ちがないと、日本という国そのものが危うくなってきます。戦後七十何年、日本は非常にゆがんだ方向に来ています。そのことに気付かなくなるくらい、この国はおかしいぞと思わないくらいゆがんでいます。非常に平和です。豊かです。しかし精神的にはどんどん貧しくなっています。日本という国はどういう国なのかしっかり勉強してください。私はそういうことを学んだ人間ではありません。刀をずっと追いかけてきて、刀とは何かを真剣に仕事をしながら考えてきて、今の日本はおかしいんじゃないかと、そんな風に思って、こういう言葉が出てくるんです。本に書いてあることを鵜呑みにしないで、自分で考えて、自分で結論を出してください。そうすれば日本は必ず蘇ります。これからの日本を立て直してください。よろしくお願いします。

※ 日本刀と私 (講話の合間に、藤安刀匠が語ったエピソードをまとめました。)

<少年時代>
 私は刀が大好きな少年でした。昔は燃料が薪や炭、豆炭や練炭でした。見たことがない人がほとんどかな。そういう時代の子供だったので、小学校に上がる前くらいは、おばあちゃんと一緒に山に枯れ木を拾いに行くのが仕事だったんですね。昭和二十一年生まれだとそのぐらいなんです。おばあちゃんについて行って、山へ行って小さな枯れ木の束を作ってもらって、真似して背負って帰ってくるというのが遊びでもあったんです。そして途中、反りのある木の枝があると何本も拾って帰ってきました。
 うちはおやじが洋服屋さんで、家で仕立ものをしたりしているので、はさみ、のみ、裁断の包丁など刃物がごろごろしていました。隣がおじさんの家で、床屋さんなので、そこも刃物だらけでした。洋服屋さんというのは夜になると仕事が終わって刃物を研ぐので、夜はそれをじっとそばで見て何となく覚えていくんですね。床屋さんは朝刃物を研ぐので、朝になると今度は隣に行ってそれを見てました。
 そうして刃物に囲まれて育った少年が、小学校二年生くらいになると、木を削ったものでは満足できなくなりました。昔、練炭火鉢というのがあって、朝火を起こすと一日、暖房としたり、お湯を沸かしたり、豆を煮たりするのに使います。練炭火鉢にはいくつも穴があいているので、私は穴の中に針金を入れて赤くして、それをとんとん叩いて鍛冶屋さんをやっていたんです。そんな風にして刀のおもちゃを作っていました。それ以来、ほとんど進化していないのが今の私です。

<高校卒業後>
 小さい時から私は、刀という字がついた本を見つけると買ってきていました。うちのおやじが本屋さんと友達で、おやじも本が好きだったんです。それで「藤安です。」というと、お金を払わないで買えるようにうちの親はしてくれたんですね。ちょうど高校三年生の時に、師匠(故宮入行平刀匠)が書いた『刀匠一代』という本に出会いました。それまで今の世に刀鍛冶がいて、刀を作っているということを知らなかったんです。その本を見て、是非、どうやって作るのかその現場を見てみたいという思いが強くなりました。工業高校に通っていたのですが、それまでは卒業したらうちの仕事をやるつもりだったので、就職ということを考えていなかったんです。どうしてもその長野県の刀匠の刀を作る現場をみてみたいということで、それからは必死になって長野県の会社を探して就職まっしぐらになりました。できるだけ先輩の行っていないところで、寮生活のところ、給料が安くてもいいので休みがちゃんと取れるところを探しました。学校にしてみれば今まで誰も就職していないところを探してきて優秀な生徒だと受け止めたんでしょうが、ものすごく不純な動機で会社を選びました。その頃は引く手あまただったので、めでたく入社できました。
 そして入社後の最初の日曜日に、食堂のおばさんにお弁当を作ってもらって、朝早く出発しました。その会社から師匠のところまで、二時間くらい離れているんですが、諏訪湖の近く、岡谷というところで、そこから電車を乗り継いで行きました。そうすると黒い暗幕を閉めて中でとんとんやっているんですね。刀を作っているところを見ることができないんですよ。困ったなと思っていたら、奥さまが出てこられて「弟子入りしたいの?」といきなり聞かれたんです。弟子入りできるのかと驚きましたが、「是非お願いします。」と答えました。「お昼になったら出てくるから。」ということで待っていたところ、師匠が出てきたんですが、私をちらっと見てそのまま行ってしまいました。今でも小さいのですが、当時は体重が四十八kgしかなくて、そんなのに重労働ができるとは思わないですよね。当然断られて、その日はお昼をご馳走になって帰ってきました。
 それから毎週通いました。すると仕事場には入れてもらえるようになったんです。鍛冶屋さんの仕事場はすごいですよね。火床(ほど)という鋼を赤める場所があるのですが、炭の中から赤くなった鋼を取り出します。師匠が、汗ばんで真っ黒けになって、オレンジ色になった鋼を叩いているのを見ていて、何とかして弟子入りしたいなと思いました。でも私は全く師匠の眼中にありませんでした。このままでは会社勤めで遊びに来ている半端な奴だと思われていると思い、親父を呼んだんです。実はこういうところへ弟子入りしたいんだと親父に話したら、一緒に行って話してやると言ってくれました。さすがに親と一緒に行ったら師匠も話を聞いてくれて、「今は寝るところもない状態だけど、建て増しをするんで、それができたら来い。」と言われたんです。もう嬉しくて飛び上がらんばかりでした。
 それで会社を辞めて、待っていたんですが、待てど暮らせど連絡が来ないんですよ。それでもう待ちきれなくなって、二月十六日ですが、荷物を送って出かけたんです。そうすると「四月に入る人がもう決まっているから駄目だ。今日は遅いから泊まって明日帰れ。」と言われてしまいました。どの面下げて故郷に帰れるのか、困ったなあと思いました。そして翌朝、師匠に「おはようございます。」と言ったら、いきなり「帰れよ。」と言われてしまいました。帰るもんかと思い、まあぐずぐずしているうちに、奥さまが「私の手伝いをさせるから、しばらく置いてあげてちょうだい。」と言ってくれて、奥さまの弟子になったんです。ほとんど台所にいて、洗い物をしたりしていましたが、刀を鍛錬している音が聞こえたり、炭のにおいや鉄の焼けるにおいがしたりして、鍛冶屋の中にいられることが本当に嬉しかったですね。

<師匠について>
 私の師匠は、兵隊にとられ、赤羽工兵隊という連隊に所属して、千島列島に派遣されることになりました。鹿島立ちという言葉があるように、茨城県の鹿島神宮に武運長久を祈ってから出発するのですが、その時、師匠は、「おまえは銃を持って戦うのではなく、刀を作ることによって国を守る役目があるんだ。」と言われ、部隊から一人だけ外されました。そうして旅立った連隊は敵の魚雷を受けて全滅しました。「私は刀によって救われた。刀のために命を捧げるのは本望だ。」と師匠からよく聞かされました。そういう師匠に私は育てていただきました。
 師匠は午前中仕事をしていて、仕事着のまま、炭で汚れたまま、ぼろぼろの袴のまま、横たわっていました。それが師匠との最後の別れでした。ああいう風に死にたい、刀に殉じて死にたいと強く思いました。私も刀によって生かされてきた以上、刀のためにこの命を使い切りたい、そういう風に思います。

(以上)