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〒603-8227 京都市北区紫野北舟岡町49

船岡山について


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船岡山の概要

 船岡山は標高112メートル(比高45メートル)、周囲1300メートル、面積2万5千坪の優美な小山であり、その東南側は建勲神社境内で特にうっそうとした森に被われている。豊臣秀吉の頃より信長公の霊地として自然がそのまま残され、京都盆地特有の樹相が良く保たれている。樹種が極めて多く、帰化植物がほとんど入りこんでいない京都市内で数少ない貴重な森とされている。
 船岡山は聖徳太子の文献にもその名が出ており、又、1200年前、京都に都が定められた時、中国の陰陽五行思想、風水思想に基づいて、龍気みなぎる地形であり、大地の気がほとばしり、溢れ出る玄武の小山であると、卜せられ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となった。今も神社境内の船岡妙見社に玄武大神が祀られている。
 平安朝の昔には清少納言が枕草子で「丘は船岡・・・」と讃え、又、大宮人の清遊の地として多くの和歌が残されている。
 船岡の若菜つみつつ君がため 子の日の松の千代をおくらむ (清原元輔)
 戦国時代の応仁の大乱の際、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。

京都 建勲神社 応仁の乱戦跡  

 船岡山は、昭和6年(1931)に京都市風致地区に、昭和43年(1968)に国の史跡に、平成7年(1995)に京都府の『京都の自然200選』に指定されている。   

京都 建勲神社 史跡 船岡山の碑


船岡山の地形と地質

 船岡山は、京都盆地の西北に位置する大文字山(通称左大文字山)の南山麓にある金閣寺の東方900mに位置する。標高約112m、長径約500m、周囲約1300m、面積約82,500u(約2万5千坪)の船状の小丘で、西北西より東南東の方向に横たわる。
 山は中央よりやや西で、北峰と南峰の2つに分かれていて、その間に西に開く凹地ができている。山は全体としてはなだらかな傾斜をもっているが、東部及び東北部には急傾斜部がある。
 山頂は南峰の中央にあって、長径約120mの長楕円形の平坦地をなしており、明治36年(1903)に三等三角点(北緯35度2分8秒756、東経 135度44分40秒417、標高111.89m)が設置されている。山麓と山頂との標高差(比高)は東南部で約45m、西北部で約30mとなっている。


 船岡山は岩盤でできており、岩盤の露出する所が多いが、その他の部分は、未固結の岩盤の風化生成物及び腐食からなる土壌が基盤岩を薄く覆っている。
 船岡山の岩盤は、丹波山地から続く基盤岩が金閣寺辺りでいったん地下に入り東に伸び、再び地上に盛り上がった部分であり、船岡山の東南東にあたる建勲神社大鳥居あたりで再び地下に入りさらに東に伸び、烏丸通りの烏丸中学の校庭に露頭し、その後急激に地下にもぐっているという。

 船岡山の岩盤はチャートと呼ばれる堆積岩であり、その走向並びに傾斜方向は愛宕山塊のチャートと一致しており、丹波層群と呼ばれる地層群に属している。
 丹波層群は、古生代の石炭紀(約3億6千万年前から約3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年前から約1億5千万年前)にかけてアジア大陸東側の海底 で形成された後隆起した地層群であり、大陸から流出した泥や砂からできた泥岩や砂岩、大陸から離れた深海底で生成されたチャート、サンゴやフズリナなどが堆積してできた石灰岩からなる地層が混在している。
 チャートは大陸から遠く離れた深い海の底で放散虫などの珪質プランクトンの遺骸が静かに降り積もって生成され、海洋プレートの北上によりアジア大陸の東側に到達し、大陸の下へと沈み込む際に、その一部が大陸側に付加されたと考えられている。生成後長い年月を経過し相当な高温高圧下に長時間置かれた結果、非晶質の二酸化珪素(SiO2)が結晶化して石英となったもので、化学的には二酸化珪素(SiO2)を90%以上含む硬くて風化しにくい堆積岩である。基質は微小石英結晶であるが、その他に微小や短冊形の石英よりやや複屈折率の高い鉱物がほぼ一様に混在している。
 チャートは厚さ数センチの珪質層と数ミリの泥質層が交互に積み重なって層状をなすことが多い。このような層状チャートは日本列島の山地を形成する中・古生代の地層によく見られるもので、船岡山のチャートも層状をなしている。