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宮司講話集

「四神相応の地、京都」
平成6年4月10日 大和祭にて

 本日は皆様大変お忙しいところ、又、大変ご遠方のところ、大平和敬神大和祭にご参列賜りまことに有難うございました。お蔭をもちまして今年の大和祭も滞りなく執り行う事が出来、心より厚く御礼申し上げます。又、日頃、毎月毎月交替で清掃奉仕頂いております関西地区の各支部の皆様方にここで心より厚く御礼申し上げます。

 さて今年は京都の街が西暦794年桓武天皇により都と定められましてから丁度千二百年目に当るという事で色々なイベントが行われる様でございます。そこで本日はどうして京都の地が都に定められたかという事につき、方位学、家相地相の観点からお話申し上げたいと存じます。中国では大昔から各地に実に多くの国々が興っては崩んでゆきましたが、その間色々な場所に街がつくられ、長く繁栄している街の条件について研究され、その研究結果が日本にも伝えられました。それによりますと四神相応の地、東西南北の四方面の神様が相応じ、相扶けあう様な土地がベストであるとされています。
 すなわち、東の方向は青龍、青い竜が長々と横たわっているような清らかな川の流れているところ、南は朱雀といって、赤い色の雀が野原に群れ遊ぶように、南が広々と開けているところ、西は白虎といって、年老いた白い虎が悠然と歩くような広い道のあるところ、北は玄武といって黒々とした亀の甲をふせたように小山が連なっているところ、これらが全部揃った土地が理想の地、四神相応の地であるとされています。
 京都盆地は、当時これら四つの条件をすべてみたしておりました。すなわち、東に鴨川の清流が流れ、南は土地が広がって朱雀の象をなし、西に亀岡街道、裏日本と大和を結ぶ道路、当時日本で一番のメインルートでありまして、まさに白虎の象をなし、北は玄武の守り、つまりこの船岡山から左大文字に連なる小山があります。そこで平安京は、船岡山を北の基点として造営されました。船岡山の真南に大極殿、朱雀大路、羅生門が造られたのであります。
 今から丁度1200年前、大平和敬神の神石のある、この船岡山から真南をみると、平安京の新しい市街の中心がまっすぐに見渡せたことでありましょう。その後京都の街は西北と東南に発展しました。京都の西北には今も古いお寺が数多くあります。仁和寺、竜安寺、妙心寺、大覚寺、天龍寺さらに奥には高尾の神護寺と有名な大寺院がたくさんあります。京都の東南の方には東福寺、伏見稲荷から宇治にかけて、随分早くから発展しました。地相家相からみて東南と西北を、人位、人の位、活動位と称し、この方面に伸びることは大吉であります。街全体の相ばかりでなく、一軒の家の家相をとりましても、乾倉といって西北に蔵のある家相を喜び、巽張りといって東南に出っぱっている、東南に発展していく象を大吉とします。会社や店舗などでも活動位である東南や西北に支店や分工場を設けることを大いに喜びます。
 さらに時代が下がると京都の街も東南や西北に伸びる余地がなくなり、西南である桂、長岡方面、東北である岩倉、大原方面に伸び出しました。東北と西南は俗に鬼門、裏鬼門といわれ、先程の人位、活動位である東南西北と異なり、自然位といわれ、自然のままにしておくべき方角であります。この方面が開発されて京都の街もその繁栄が終わり、東京に遷都する次第となりました。我々の個人の家でも会社でも、鬼門裏鬼門である東北や西南方向に建て増ししたり、巨石巨木をしつらえる事は家相学上、最も凶とされる所以であります。

 本日は建都1200年にちなみまして四神相応の地、船岡山が平安京の北の基点になっている事、地相家相のお話等、申し上げました。皆様に何らかのご参考になれば大変幸甚であります。

 どうか皆様にはこらからも出居教祖様の「みおしえ」に一層研鑽を積まれ「みおしえ」のシンボルであります「大平和敬神」の神石を始め各地の神石和石のもと、益々交流を深め、ご発展なさいますようお祈り申し上げます。
 最後に一言申し上げたい事は、来年はいよいよ大平和敬神神石の25周年の記念の年となる事であります。どうか来年は25年、四半世紀にふさわしい意義ある式典が行えますよう、宜しくお願い申し上げます。本日はまことにありがとうございました。

(以上)