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宮司講話集

「明治の息吹を伝える建勲神社の建物」
令和元年10月19日 船岡大祭にて

 本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が天下統一の為初めて上洛された永禄十一年十月十九日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からゆかりの方々のご参列を得て執り行うことが出来、まことに有難うございます。

 今年は明治二年、建勲神社が創建されて丁度百五十年の節目の年に当ります。昨年九月の台風被害も多くの皆様方のご芳志により、全て復旧し、本日めでたく記念の船岡祭を斎行する事が出来、まことに慶ばしい限りであります。

 さて、ご祭神信長公は同時代の人々の考え方のはるか先を見ておられた方で、明治維新の基礎を築かれたと言われております。明治天皇は明治二年、この信長公を神社にお祭りするようご下命なされ、建勲のご神号を賜り、別格官幣社に列し、鎮座地を信長公ゆかりのこの船岡山に定められました。そして、その後明治十三年、ご社殿がこの船岡山の麓に完成いたしました。
 船岡山は皆様ご高承の如く清少納言が枕草子の中で讃えた優美な小山であります。又、信長公が本能寺の変でなくなられると、時の正親町天皇が船岡山を信長公の廟所と定められました。従いまして、建勲神社の鎮座地は明治の初め、東京や名古屋等に誘致する案もありましたが、すぐにこの船岡山に決定されました。
 ただ船岡山の東の麓は土地が狭く、当初より船岡山の山頂に社殿を移したいとの要望がありました。山頂移転には、しかし巨額の土木工事が必要で、なかなか政府の許可が得られませんでした。そこで当時の京都市長内貴甚三郎氏が中心となって政府へ働きかけ、民間からの寄附を募りました。信長公は応仁の乱で荒廃した京都を立て直した方であり、そのため京都市民の土地の税金を免除し、それが明治維新まで続いていた事を当時の京都市民はよく知っており、大いに市民の協力が集まり、特に日露戦争勝利の後の寄進が顕著であったと当時の文書に書かれています。その後政府の許可もおり、土木工事を進め、山麓の諸社殿を全て解体して山上に持ち上げて、組み立てて、明治四十三年、今日の建勲神社の姿が出来上がりました。なおご本殿を解体する前に、ご神霊を仮宮にお遷ししましたが、その仮本殿だけは、そのまま山麓に残り、現在、義照稲荷神社の社殿となっており、大変貴重な建物であります。
 ところで、明治政府の若い官僚達は理想に燃えて、西洋のすぐれたものをどんどん取り入れると共に、日本古来のあるべき姿を追い求め、江戸時代に華美に流れていた神社の建物はこうあるべきだとして、神社建物制限図を規定しました。この制限図に則って建立されたのが建勲神社の建物であります。明治十三年の社殿がそのままの形で今も保たれ、当時の息吹を感じる事のできる、まさに明治の遺産であります。今後とも、末長く大切に守り伝えて参りたいと存じております。

 本日は皆様、創建百五十年記念の船岡祭に本当によくご参列賜りました。建勲神社の大神様のあらたかなご加護をお受けになられ、益々お元気に、お幸せにお暮しの程、お祈り申し上げます。

(以上)