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藤安将平刀匠の講話

1 薬研藤四郎の再現

 今回いろいろなご縁がありまして、織田信長公をお祀りしている京都の建勲神社に薬研藤四郎を再現したものを奉納したいという、そういう奇特な方のご意志に沿って短刀を作りました。
 薬研藤四郎は、鎌倉時代の山城国粟田口派の刀工「吉光」の作です。吉光が作った刀は、吉光の俗名が藤四郎であったことから藤四郎と呼ばれますが、この短刀は、持ち主であった畠山政長が、敗戦の際に切腹しようとしたものの腹に刺さらず、投げ捨てたところ、近くにあった薬研(薬を粉末状にする器具)を深々と貫いたことから薬研藤四郎と呼ばれるようになったといいます。その後、薬研藤四郎は、足利将軍家を経て、松永弾正より信長公へ献上され、信長公の愛刀として大切にされましたが、本能寺の変の際に火災にあい、信長公とともに命を終えています。本能寺の変の後、再刃(さいは)・焼直(やきなおし)といって、もう一度焼き入れをされたという記録はありますが、その後行方不明になり、今は見ることができません。ひょっとしたら、どこかで発見される望みがないことはないのですが、今のところ見つかっておりません。

<古刀の再現>
 現存しない刀なので、どういうふうにそれを再現するのかということを自分の中でイメージとして固めるのに少し時間がかかりました。二年くらい前にこの話をいただいて、この二年の間に色々な資料を集めました。図版などに現存する藤四郎がたくさん掲載されています。また刀絵図の中にもたくさん藤四郎が載っていますし、焼け身という分類の中にも藤四郎が載っていますので、それらを可能な限り集めて、原寸大にコピーしたり拡大コピーしたりして、仕事場のあちこちにべたべた貼って、藤四郎にどっぷり浸りました。
 古刀を再現するには、古い刀がどのようにして作られたかを技術的につかまえなくてはなりません。普通の人は刀を鑑賞し、心で受け止めていろいろな思いがそこから湧き上がってくると思います。私の場合は、刀を作る技術者として、古い刀の地肌の模様から、その刀が何回くらい鍛錬されたものなのか、どんな素材をまとめたものなのかを推測する目を養わなくてはなりません。刃文一つにしても、技術者の眼で見つめ、どういう温度で、その温度をどのくらい保持して、どのタイミングで水に入れたかを読み取らなくてはなりません。古い時代に作られたであろう技術を読み取っていって、なるべくそれに近いものを作ろう、なるべく名品に近づけていこうとします。そういうことをずっと繰り返してきたので、私は今では現物からだけでなく、上手な人が作った刀の押形(刀の上に紙をのせて輪郭を取って、そこに刃文を見ながら書いたもの)からも刀を作った際の火の加減が読み取れるようになりました。
 ただ写真や押形からもある程度は読み取れますが、やはり現物から読み取れば読み取るほど、しかも手にとって間近に何度も読み取れば読み取るほど、実際に近いものが読み取れます。今回、薬研藤四郎は現物がないので、現存するほかの藤四郎をつぶさに見ることで推測したかったのですが、名刀であればなおさらなのですが、現在、国立博物館や美術館では刀をほとんど手に取って見せていただけない状況で本当に残念です。現物を手に取って、しかも拡大鏡を使って覗きこむようにして何回も何回も見ることでいろいろなことがわかるのですが、ガラス越しに見ているだけではいささか心もとなく、不足感がぬぐえません。ただこのお話をいただく前に、藤四郎の現物を手にとって見る機会があり、その際の記録が大変参考になりました。

<形のイメージを作る−木型の制作>
 薬研藤四郎の資料はほとんどないのですが、一番の資料は絵図面です。光徳刀絵図(秀吉の刀剣収集の相談役、刀剣の研師、刀剣鑑定の第一人者であった本阿弥光徳による全身押形集)に、「やけん」と平仮名で書いた絵図面があり、それが八寸三分という長さです。他の現存する藤四郎をみてみますと、庄内酒井家の信濃藤四郎が八寸二分で薬研藤四郎に一番近い形です。一分しか違わないんですね。今の単位でいいますと薬研藤四郎は三ミリくらい信濃藤四郎より長いんです。信濃藤四郎は非常に大切にされたようで、研ぎ崩れとか研ぎ減りが少ない健全な姿(日本刀では形のことを「姿」といい、姿が美しいとか、姿に品格があるなどといいます。)をしていまして、茎(なかご)の調子も非常に美しい状態で保存されています。それに加えて、私は何年か前に庄内酒井家の当主から実際に信濃藤四郎を手渡されて拝見したことがあります。その時の記録もありますので、信濃藤四郎をお手本にして長さを八寸三分に伸ばして木型を作りました。幅も信濃藤四郎よりももう少し、二ミリくらい出して、それに伴って重ねも信濃藤四郎より少し厚くして全体のバランスをとりました。その木型をもとに、立体のイメージを自分の中で固めました。

<素材となる鋼の鍛錬>
 そうして形のイメージができましたので、次に素材となる鋼(はがね)の鍛錬に取り掛かりました。解説を読みますと、粟田口藤四郎吉光は、非常に細かい地鉄(じがね)で、地沸(じにえ)という焼き入れによる金属の組織が変化したものが厚くついて、いわゆる梨子地肌を呈していると書いてあります。非常に小板目が詰んで細かい地鉄で、一見すると無地にみえるというような解説もあります。ところが信濃藤四郎、それからその他にもう一回、藤四郎の現物を手に取ってみる機会があったのですが、現物を手に取ってよく見てみますとそれほど細かい鉄ではないんですよ。割合大きな板目が底に沈んでいるのも見えます。東京国立博物館の厚藤四郎も今データで取り出せるのですが、七寸くらいの長さのものを大きく拡大してプリントアウトしてもらうと、かなり大きな板目、加えて綾杉肌がはっきり見て取れます。今回京都国立博物館の「京のかたな」展に展示されている藤四郎をみても、ちょっと肌だったようなのもあれば、目が詰んだのもありますが、はっきりとした綾杉でないにしても、ゆったりとした流れた肌、うねった肌模様が見て取れます。他の藤四郎も写真で見る限りそういう肌を共通して持っています。それが藤四郎らしさの見所になる彼の技術の結果だと思うんですね。藤四郎の肌目をみると、何回も何回も鍛えて細かく詰まらせた地鉄ではないということが読み取れるんです。
 私が師匠から習った今までのやり方というのは、下鍛えを八回から十二回、伸ばしては折り返してくっつけてというのを繰り返して、それを細く伸ばして組み合わせて、今度は上げ鍛えを八回くらい、折り返し鍛錬をするという、非常に細かくなる作業でした。そうするとほとんど無地になってしまいます。そのまま焼き入れをしても鉄が細かすぎて藤四郎にみられるような変化のある刃にならなくなってしまいます。今その辺で買う鉄というのもそうですが、非常に細かく詰んだ組織を持っています。ところが古い時代の刀で廃棄するような刀ですが、それを折ってみますと、木とか竹を折ったようにざっくり折れてきます。折り返し鍛錬の何枚もの層がお互いからみあっていて、つまり完全に密着していません。それが研いだときに肌模様になって表面にあらわれてきます。隙間の多い鉄が古い日本刀の鉄なんです。そこに焼き入れの効果によって沸(にえ)という細かな粒状の結晶が発生し、研ぎによる乱反射で非常に美しく目に入ってきます。それが藤四郎の場合は、針の先で突っついたくらいの細かさでびっしり厚く沸の粒が地鉄についていて、沸映り(にえうつり)という現象を呈しています。ですから隙間のある地鉄を作らなくてはならないんですね。
 鋼というのは面白いもので、手をかければかけるほど劣化していきます。刀というのはほかの美術品のように一ヶ月も二カ月もあるいは何年というように長い時間をかけてまとめあげていくものではありません。極端なことをいうとなるべく手をかけないようにしなければいけない。何回も火にかけるよりは少ない回数でまとめる方が、鋼としては非常に丈夫なものになります。
 現存する吉光の肌を実際にみると、たぶんそこまでは何度も鍛錬していないだろうということで、今回、薬研藤四郎の再現にあたっては、下鍛えを三回、それを板状に伸ばしたものをまた組み合わせてまとめて上げ鍛えを三回、折り返し鍛錬し、都合六回、半分以下の回数でまとめました。なるべく密着しないようにくっつけなくてはならない。非常に矛盾していますが、それを考えながら鍛錬しました。
 ただ研ぎ上げるまでは、鍛錬した肌がどのようになっているかわかりません。おそらく細かくなって、少し板目肌になっているはずだという前提で仕事を進めていきました。

<火造り>
 そのように鍛えたものを、一本だいたい五十匁(もんめ)くらい(1匁=3.75gなので約190g)に切って六本作りました。そして切先(きっさき)を尖らして、茎を絞り込んで一本一本短刀の形を作っていきました。火造りという作業です。大きめに作って削ればよいのですが、削るというのはもったいないことなんです。叩いて伸ばして所定の目方のものを所定の大きさまで伸ばすというのが鍛冶屋の仕事です。また図面を引いて正確に図面通りにやると線が固くなってしまうので、私の場合は図面は引きません。
 短刀というのは平造りが主で、鎬の線がなく、横手の線もない。つまり刃区(はまち)からずっと切先まで全部曲線でできています。そうすると同じ人が同じ目方に切ったものを同じ形に作っているつもりでも、一本一本微妙に違ってきます。いい姿にまとまった短刀もあれば、いまいちなもの、ちょっと伸ばしすぎたもの、幅が絞り足りなかったもの、いろいろなものができて、六本そろいました。

<焼き入れから完成まで>
 次に焼き入れになりますが、焼き入れというのは火の中に入れて赤くなったものを、水に入れて急冷し刃先を固くするという作業です。吉光の刃文というのは、ご存知のように、はばき元に小互の目(こぐのめ)をそろえて、その先は直刃(すぐは)になって、帽子(ぼうし)が小丸に返ると、解説にはそう書いてあるんですが、案外こうピーンとした直刃ではないんですね。少しほつれたり、刃の中に足が入ったり、小互の目が入ったり、葉(よう)が飛んだりという、そういう心地よい変化のある直刃です。帽子も、小丸にきれいに返る帽子というのは吉光には案外少ないんですよ。小丸にきれいに返った美しい帽子もありますが、後藤藤四郎のように火炎状に崩れたものもあり、信濃藤四郎の帽子も少し返りが固い感じです。ただ研ぎによるきれいな刃取りをしているので、そういう風に見えるだけなんです。
 また光徳刀絵図の薬研藤四郎をみますと、吉光にしては刃文の幅が広い、広直刃に近い刃文に書いてあります。形も割合がっちりしているので、あるいは広直刃だったのかもしれません。光徳刀絵図は押形ではなく絵図面なので本当に広直刃だったのか、それとも図面を書いた人がそう書いたのかわかりませんが、ほかの藤四郎の絵図面と比べてみても薬研だけが少し刃文が広くなっています。ただ姿とのバランスをみると少し刃幅が広すぎるかなと私は感じました。広直刃にするとちょっと吉光らしさが少なくなるのではないかということもあったので、信濃藤四郎を基準にして刃幅を絵図面より少し狭くして設定しました。
 六本とは別に一本試作品を作り、どのくらいの温度が自分の作った地鉄に合うのかということを検証してみました。元の方の温度を少し高めにとって先の温度を逆に低めにとって、それで焼きを入れてみるとだいたい見当がつきます。そうすると元の方がやはり高すぎて、先の方が低すぎるんですね。ちょうど真ん中くらいが、非常にいい刃が入りました。その結果、あの辺の色なら、その地鉄は自分の思う方向に反応するというだいたいの見当がつきました。
 理想的なのは一番いい姿に仕上がったものに、一番いい刃が入れば何の問題もないんですが、ご想像のとおり、えてしてそうはなりません。実際やってみますと、どれがどれだかわからない状態で焼かざるを得ません。というのは刃区から上、全部土を塗るんですね。焼刃土(やきばつち)といいます。焼刃土を塗ることを土置きあるいは土取りといいますが、この土取りで刃文をコントロールします。刃先を薄く、地の方を少し厚く塗って、その境目が刃文になります。焼刃土を塗る前だと姿のよしあしがわかりますが、塗ってしまうと全部同じに見えます。従って、いい姿のものに気合を入れて焼きを入れるという余計なことを考えなくてすむという面もあります。
 焼き入れというのは、時間的には短く、赤めて冷やすまで五分もかかりませんが、刀鍛冶にとっては非常に重要な瞬間です。それは鋼に命が吹き込まれる瞬間で、一秒早くてもだめ、一秒遅くてもだめなんです。地鉄の感度、焼き入れの温度、その温度に保持している時間、水に入れる時のわずかのタイミングの違いなどで、刃文というのは様々に変化します。様々な条件が合うと見事な刃文になるのですが、ただそれもやってみないとわかりません。一本だけで仕上げるというのは至難の技です。だから何本も何本も作るのが本来の刀の作り方です。今回は六本しか作らなかったのですが、その中でも最初に焼きを入れたのと、最後に入れたのとでは違ってきています。一本ずつ焼きを入れて刃文を見てこれならいけるなというのと、ちょっと過ぎたかなというのができて、その中で姿と刃文の調子で総合点の高いものを二本選びました。それを二本並行して研ぎ、鞘(さや)を作り、はばきを作りと仕上げていきました。仕上がった段階で、私が今師事している山武士先生に最終的に見ていただき、さらに、姿と地鉄と刃文の調子の平均点の高い方、完成度の高い方の押形を取っていただき、今回奉納の作と決まりました。

<出来上がり>
 そんなことで今回、一層藤四郎吉光らしいものを目指して作刀しました。藤四郎吉光の名品が、今回京都国立博物館に数多く出ていますが、それぞれよくみると一本一本違います。姿が違い、茎の形も振袖があったり真っ直ぐなものがあったり切られたものがあったりします。銘文の「吉光」にしても、同じ形の銘はありません。細い鏨(たがね)で伸び伸びと素晴らしい字を切っていますが、少しずつ書体が違ったりしています。ただ並べてみますと、その中に流れる共通の藤四郎吉光らしさ、作風が出ています。その雰囲気が薬研藤四郎の再現刀の中に少しでも流れてくれれば良いということで作刀しましたので、よく見ていただくと、下半分に、そこまではっきりは出ていないのですが、特に単眼鏡をお持ちの方は、大きな板目が底に沈んでいるのを確認できると思います。
 加えて刃区の上、ずっと地沸の厚い層が広がっています。地沸による沸映りという現象が、ガラス越しでもかなり見えます。これは吉光にもみられるものですし、同時代の他国の短刀にもみられるものです。そのつもりでじっと見ていただくと、直刃のちょっと上に黒っぽい所があって、その上に、ふわっと霞のような白い、もやもやとしたものが見て取れます。これは焼き入れの効果によって地沸が発生して、それが白っぽく、細かい粒々がびっしり連なった状態で、結果的には一見梨子地肌に見えます。その辺を注視していただければ、吉光らしさと共通する所を感じていただけるものと思います。
 刃文については納得できない部分もありましたが、帽子は小丸に返った上品な形のものに焼きあがりましたので少しホッとしました。
 鋼の性質というのがあるのですが、鋼の純度については満足できるものとはなっていません。鋼というのは鉄と炭素の結びつきです。鉄と炭素だけが結びついていれば一番いいのですが、鉄は色々な元素を取り込みやすい金属です。一番害になるのがリンと硫黄です。害になる金属が混じるといくら手をかけてやっても刃先がぼろぼろこぼれるような鋼になってしまいます。幸いに今回はそこまでにはならなかったのですが、今の鋼の作り方では他の色々な元素が微量に入り込んでしまうのではないかと思います。ですから鎌倉時代にみられるような純度の高い青く澄んだ地鉄というのは、今はなかなか手に入りません。
 銘は、研ぎ上がってから切ったのですが、緊張しました。ただ躊躇していると、あの伸びやかな線が出てきません。崖っぷちで背中を押されて飛び降りる感じで切りました。その辺が難しいけれど面白かったですね。
 結果的に自分で見ていろいろ考えてみますと、いまいち攻めきれなかったという思いはありますが、自分の力の限界がその辺なのかもしれません。自分の頭の中では次はこうしてやろう、ああしてやろうというのはありますので、また次の機会をとらえてやってみたいと思います。

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