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藤安将平刀匠の講話

※ 日本刀と私

<少年時代>
 私は刀が大好きな少年でした。昔は燃料が薪や炭、豆炭や練炭でした。見たことがない人がほとんどかな。そういう時代の子供だったので、小学校に上がる前くらいは、おばあちゃんと一緒に山に枯れ木を拾いに行くのが仕事だったんですね。昭和二十一年生まれだとそのぐらいなんです。おばあちゃんについて行って、山へ行って小さな枯れ木の束を作ってもらって、真似して背負って帰ってくるというのが遊びでもあったんです。そして途中、反りのある木の枝があると何本も拾って帰ってきました。
 うちはおやじが洋服屋さんで、家で仕立ものをしたりしているので、はさみ、のみ、裁断の包丁など刃物がごろごろしていました。隣がおじさんの家で、床屋さんなので、そこも刃物だらけでした。洋服屋さんというのは夜になると仕事が終わって刃物を研ぐので、夜はそれをじっとそばで見て何となく覚えていくんですね。床屋さんは朝刃物を研ぐので、朝になると今度は隣に行ってそれを見てました。
 そうして刃物に囲まれて育った少年が、小学校二年生くらいになると、木を削ったものでは満足できなくなりました。昔、練炭火鉢というのがあって、朝火を起こすと一日、暖房としたり、お湯を沸かしたり、豆を煮たりするのに使います。練炭火鉢にはいくつも穴があいているので、私は穴の中に針金を入れて赤くして、それをとんとん叩いて鍛冶屋さんをやっていたんです。そんな風にして刀のおもちゃを作っていました。それ以来、ほとんど進化していないのが今の私です。

<高校卒業後>
 小さい時から私は、刀という字がついた本を見つけると買ってきていました。うちのおやじが本屋さんと友達で、おやじも本が好きだったんです。それで「藤安です。」というと、お金を払わないで買えるようにうちの親はしてくれたんですね。ちょうど高校三年生の時に、師匠(故宮入行平刀匠)が書いた『刀匠一代』という本に出会いました。それまで今の世に刀鍛冶がいて、刀を作っているということを知らなかったんです。その本を見て、是非、どうやって作るのかその現場を見てみたいという思いが強くなりました。工業高校に通っていたのですが、それまでは卒業したらうちの仕事をやるつもりだったので、就職ということを考えていなかったんです。どうしてもその長野県の刀匠の刀を作る現場をみてみたいということで、それからは必死になって長野県の会社を探して就職まっしぐらになりました。できるだけ先輩の行っていないところで、寮生活のところ、給料が安くてもいいので休みがちゃんと取れるところを探しました。学校にしてみれば今まで誰も就職していないところを探してきて優秀な生徒だと受け止めたんでしょうが、ものすごく不純な動機で会社を選びました。その頃は引く手あまただったので、めでたく入社できました。
 そして入社後の最初の日曜日に、食堂のおばさんにお弁当を作ってもらって、朝早く出発しました。その会社から師匠のところまで、二時間くらい離れているんですが、諏訪湖の近く、岡谷というところで、そこから電車を乗り継いで行きました。そうすると黒い暗幕を閉めて中でとんとんやっているんですね。刀を作っているところを見ることができないんですよ。困ったなと思っていたら、奥さまが出てこられて「弟子入りしたいの?」といきなり聞かれたんです。弟子入りできるのかと驚きましたが、「是非お願いします。」と答えました。「お昼になったら出てくるから。」ということで待っていたところ、師匠が出てきたんですが、私をちらっと見てそのまま行ってしまいました。今でも小さいのですが、当時は体重が四十八kgしかなくて、そんなのに重労働ができるとは思わないですよね。当然断られて、その日はお昼をご馳走になって帰ってきました。
 それから毎週通いました。すると仕事場には入れてもらえるようになったんです。鍛冶屋さんの仕事場はすごいですよね。火床(ほど)という鋼を赤める場所があるのですが、炭の中から赤くなった鋼を取り出します。師匠が、汗ばんで真っ黒けになって、オレンジ色になった鋼を叩いているのを見ていて、何とかして弟子入りしたいなと思いました。でも私は全く師匠の眼中にありませんでした。このままでは会社勤めで遊びに来ている半端な奴だと思われていると思い、親父を呼んだんです。実はこういうところへ弟子入りしたいんだと親父に話したら、一緒に行って話してやると言ってくれました。さすがに親と一緒に行ったら師匠も話を聞いてくれて、「今は寝るところもない状態だけど、建て増しをするんで、それができたら来い。」と言われたんです。もう嬉しくて飛び上がらんばかりでした。
 それで会社を辞めて、待っていたんですが、待てど暮らせど連絡が来ないんですよ。それでもう待ちきれなくなって、二月十六日ですが、荷物を送って出かけたんです。そうすると「四月に入る人がもう決まっているから駄目だ。今日は遅いから泊まって明日帰れ。」と言われてしまいました。どの面下げて故郷に帰れるのか、困ったなあと思いました。そして翌朝、師匠に「おはようございます。」と言ったら、いきなり「帰れよ。」と言われてしまいました。帰るもんかと思い、まあぐずぐずしているうちに、奥さまが「私の手伝いをさせるから、しばらく置いてあげてちょうだい。」と言ってくれて、奥さまの弟子になったんです。ほとんど台所にいて、洗い物をしたりしていましたが、刀を鍛錬している音が聞こえたり、炭のにおいや鉄の焼けるにおいがしたりして、鍛冶屋の中にいられることが本当に嬉しかったですね。

<師匠について>
 私の師匠は、兵隊にとられ、赤羽工兵隊という連隊に所属して、千島列島に派遣されることになりました。鹿島立ちという言葉があるように、茨城県の鹿島神宮に武運長久を祈ってから出発するのですが、その時、師匠は、「おまえは銃を持って戦うのではなく、刀を作ることによって国を守る役目があるんだ。」と言われ、部隊から一人だけ外されました。そうして旅立った連隊は敵の魚雷を受けて全滅しました。「私は刀によって救われた。刀のために命を捧げるのは本望だ。」と師匠からよく聞かされました。そういう師匠に私は育てていただきました。
 師匠は午前中仕事をしていて、仕事着のまま、炭で汚れたまま、ぼろぼろの袴のまま、横たわっていました。それが師匠との最後の別れでした。ああいう風に死にたい、刀に殉じて死にたいと強く思いました。私も刀によって生かされてきた以上、刀のためにこの命を使い切りたい、そういう風に思います。

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