船岡大祭 宮司あいさつ
「建勲神社創建時の船岡山絵図」

本日は皆様船岡大祭にご参列給わりまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が天下統一の為始めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年のこの日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からもゆかりの方々のご参列を得て執り行うことが出来、洵に有難うございます。

さて今年は建勲神社が創建された明治2年から145年となります。明治天皇による神社創建のご宣下の次に、「建勲(たけいさお)大神」「建勲神社」のご神号を賜り、この船岡山に社地をお定め頂き、別格官幣社に列せられ、明治13年にようやく本殿拝殿以下ご社殿が新造営され、実際にこの船岡山の麓に竣工いたしました。その折の絵図が神社に所蔵されており、本日、この絵図の拡大パネルをご覧いただきたく存じます。
この絵図は船岡山を東から西へ眺めた図で、船岡山の西北に衣笠山が緑で描かれ、その遠くに愛宕山が見えております。建勲神社のご社殿は船岡山の麓の広場に建てられており、大鳥居だけが現在と全く同じ位置にあります。船岡山の北側、東側、南側はすべて田畑としてえがかれており、さらに、船岡山の西南の方に北野天満宮の森が見られ、その先には仁和寺、御室の五重塔の先端が見えております。
明治の初め紫野の地は、この絵図の様に本当にひなびたところであったのか確かめる為、国土地理院2万分の1測量図明治22年版、同じく明治42年版を見ますと、全くこの絵図の通りとなっており、明治時代この船岡山周辺は愛宕(おたぎ)郡大宮村という地名通りの姿であった様であります。京都市の人口は明治22年には僅か28万人で現在の5分の1以下でありました。その後どんどん人口が増えて、大正時代にはこの辺りも宅地化が進み、大宮村を始め、上賀茂村、衣笠村等が京都市に編入されました。なお、伏見が京都市の一部となったのは、さらに後の昭和6年であります。
さて建勲神社はその後、明治43年に麓の社殿をすべてそのまま現在の山頂に移設いたしました。従ってこの絵図は明治13年から43年まで30年間の建勲神社の姿であります。

ところで、この建勲神社の本殿以下諸社殿11棟は、近代創建神社を代表する秀逸な建物として平成20年に国の登録有形文化財に指定されました。明治政府の内務省営繕局は木造建築においては簡素な力強い象形の美しさを推奨して神社建築制限図を策定しました。建勲神社のご社殿はこの明治政府の一番初期の神社建築制限図そのままに造られた貴重な歴史遺産との事であります。確かに、本殿は流造りの簡素なものであり、お堂形式の大きな本殿ではありません。この神門も切妻の単純な屋根の形であり、入母屋の拝殿、神饌所と調和して直線的な美しさを表している様に思われます。明治維新直後の日本人の美意識、また、質実剛健な当時の気風をよく表しているこの11棟の建物をいつまでもこのまま守り続けたいと存じております。

さて建勲神社では只今、全長800メートルにわたる朱の玉垣を新しく造り替えております。まず、この本殿拝殿の周囲の玉垣をはじめ全体の3分の1が竣工いたしました。来年の船岡祭までには、ご本殿の裏山をぐるりとめぐる玉垣も含めて全て完工し、皆様にご披露申し上げたく存じております。

本日は皆様ご多用の中、船岡祭に本当によくご参列賜りました。どうぞ建勲神社の大神様のご加護の下、益々お健やかに、お仕合せにお過ごしくださいます様お祈り申し上げご挨拶とさせて頂きます。

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