船岡大祭 宮司あいさつ
「二代目としての織田信忠卿」

本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が天下統一の為始めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からもゆかりの方々のご参列を得て執り行うことができ、まことに有難うございます。

建勲神社は明治2年明治天皇のご下命により創建されましたが、今年は丁度創建140周年に当ります。神社ではこの140年記念の船岡祭を目標に10年をかけて境内の整備事業を進めて参りましたが、本日はその竣工祝賀祭でもございます。まず参道の一新を図るべく石段の積み直し、石畳新設、自動車道の舗装、さらには狛犬、石燈籠16基、朱塗燈籠10基の新設奉納を賜りました。又、境内13棟の建物や大鳥居の修理整備を終了しました。特に、檜皮葺のお屋根5棟の葺き替えを行い最後にこの拝殿のお屋根葺き替えをようやくこの8月に竣工致しました。皆々様のご協力本当に有難うございました。

さて建勲神社のご祭神は織田信長公とそのご嫡男信忠卿でありますが、本日はこの織田信忠について少しお話を申し上げたいと存じます。世の中で二代目は初代よりも大変だとも言われます。先代の偉業を継承しそれに負けぬ独自の色を出しながら社会の変化に合わせて改革していかねばなりません。現代でも政治家や会社々長、医師、弁護士等様々の職種があり、これを受け継ぐ二代目の方々も人には言えぬ困難があります。
戦国時代の二代目といえば、武田信玄の嫡子武田勝頼、関東の雄北条氏康の長男北条氏政、上杉謙信の後継者上杉景勝が有名であります。又、日本歴史上武家政権の二代目でいえば平清盛の長男平重盛、源頼朝の長男源頼家、徳川家康の後継者秀忠等それぞれに大変苦労があった訳ですが、日本歴史上織田信忠程大変だった二代目はいないと思われます。
何といっても不世出の英雄織田信長の嫡男として生まれたのですから、天才的で独裁的な父との葛藤に悩みながら、信忠は有能で誠実な人格と勇ましい気性をもって、たくましく成長なさいました。雑賀討伐や松永久秀攻略に武功を重ね、天正10年武田攻めの総大将として信長公参陣の前に武田を滅ぼし、父からも周囲の武将達からも信長公の後継者としての力量と判断力を認められました。しかしその矢先、本能寺の変にあって26歳の若い命を落とされました。
本能寺の変の際、信忠は二条城から逃げのび、安土城なり岐阜城に入って明智光秀と戦えば豊臣政権、徳川幕府ではなく織田幕府が続いたことになる可能性は大きかったと後の結果論でいわれますが、あの時、あの状況で京都から逃げのびるのでなく、父信長公の無念な思いに殉じて、二条城で獅子奮迅の戦いを繰り広げたのは父を心から崇拝する信忠らしいまことに清々しい立派な行動であったと思います。
大楠公楠正成公に殉じられた小楠公楠正行卿と並んで織田信忠卿が神社のご祭神として祭られておられるのは日本人の親子の心情、日本人の死生観のしからしむところでありましょう。

本日は皆様ご多忙の中ご参列賜り、お蔭様で今年も船岡祭を滞りなく執り行う事ができまことに有難うございました。建勲神社の大神様のあらたかなご加護の下、益々ご健康にお過ごしの程お祈り申し上げます。有難うございました。

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