大和祭 宮司あいさつ
「佐久間盛政」

本日は皆様大平和敬神31年目の記念祭によくご参列賜りました。春の祭典のみならず、この秋の祭典にもご参列賜る皆様、毎月毎月交替で清掃奉仕を頂く近隣各支部の皆様はこの神石をささえる柱石であり、心より厚く御礼申し上げます。

さて本日は信長公の三十六功臣の一人佐久間盛政について一言申し上げさせて頂きます。明治の始め建勲神社が創建された時、信長公のご家来衆の中から特に36人のぬきんでた方々、木下藤吉郎とか柴田勝家とか前田利家を選んでそのお姿を肖像画に描き拝殿にかかげました。その中で身丈六尺豊か、鬼玄蕃といわれる猛将佐久間盛政がおります。盛政は信長公の命により北陸の地にあって柴田勝家の組下に配され、金沢城主20万石の城持大名でありました。そして皆様よく御存知の通り本能寺の変の後、豊臣秀吉と柴田勝家と間で信長公の跡目争いがおこり、有名な賤ヶ岳の合戦が始まります。まず秀吉の配下の中川清秀と勝家配下の佐久間盛政の間で戦いの火蓋がきられます。中川清秀は秀吉方では一、二を争う猛将ですが佐久間盛政に討ち取られてなくなります。その後、陣型の崩れた勝家軍は秀吉に大敗し勝家はその妻お市の方とともに自刃します。勝家配下の前田利家らは秀吉に許され秀吉方となりますが、佐久間盛政はその勇を惜しんだ秀吉から是非自分の配下につくように誘われますが、柴田勝家への忠節を曲げず、望み通り、29歳を一期として宇治槙島で斬首されます。佐久間盛政の生き方は、戦国の世にあって洵にさわやかな猛将の生涯であります。
ところで来年はNHKの大河ドラマが前田利家という事で、金沢市ではそれにあわせて観光客を誘致すべく、金沢城を整備し、この程、佐久間盛政の作った百間堀に沿って五十間長屋が木造で竣工し、金沢城が見違えるように立派になりました。新しく出来たこの五十間長屋の中に建勲神社の佐久間盛政の肖像画が大きくカラーパネルとして飾られています。
先年、大分県竹田市から佐久間盛政の子孫と称する方、ご夫妻と3人の息子の5人家族がおみえになり、是非、先祖佐久間盛政の肖像画を拝ませてほしいと申されました。佐久間家は断絶している筈なのにとお話を伺うと、不思議な大変いいお話なのです。実は宇治槙島で縛り上げられた佐久間盛政に中川清秀の一子、中川秀成が面会に来ます。さぞかし親のかたきとののしるかと思うと、中川秀成は「武人の戦いの勝ち負けは時の運、父はあなたに敗れ、あなたは秀吉の前に捕らわれたが、共に立派な武将だ」といって丁重に挨拶しました。佐久間盛政はこの事に感動し、敵将の息子ながら天晴だ、自分の一人娘虎姫も、あのような青年に嫁げればと言い残して首を斬られます。この事を聞いた秀吉のはからいで虎姫と中川秀成が結婚し、秀成はやがて竹田の岡城七万石の大名となります。そして虎姫の希望を叶えるべく、二人の間の子供の一人に佐久間姓を名乗らせ、竹田に住まわせ、現在に至ったというお話であります。竹田の岡城といえば滝廉太郎の荒城の月で有名ですが、この話も、又、心温まるいいお話であります。

本日は建勲神社の三十六功臣の一人につき最近のお話をご披露させて頂きました。皆様、ご多用の中、本日はよくご参列頂きました。皆様のご健勝と捧誠会の弥栄をお祈り申し上げ、本日のご挨拶とさせて頂きます。

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