ご由緒
明治2年(1869)、明治天皇より戦国乱世において天下統一、朝儀復興などの事業を進めた信長公の御偉勲に対し特に神社創立の宣下があり、さらに明治3年(1870)には神号「建勲」の宣下がありました。
明治8年(1875)、別格官幣社に列せられ、山城國船岡山に社地を賜りました。明治13年(1880)、社殿を新たに造営し、御嫡子信忠卿を配祀し、明治43年(1910)に本殿以下諸舎を山麓から山上の現在の社地に移建しました。
以来、稀代の英雄織田信長公の正気芳魂は、国家安泰・万民安堵の神としてこの船岡山の山上に鎮り給います。
ご祭神
主祭神
贈太政大臣贈正一位 織田信長公
配 祀
従三位左近衛中将 織田信忠卿
ご神徳
国家安泰・万民安堵の大生の神
大願成就・開運・難局突破・産業指導の神・災難除けの神として、猛々しくもあらたかなその御神徳が広く崇敬されています。
ご神紋
織田木瓜
木瓜紋の派生紋で、外郭の数が5つあるために五瓜木瓜や五瓜に唐花といいます。信長公・織田家の家紋として広く知られていることから一般には織田木瓜と呼ばれています。
木瓜紋は10大家紋の一つとしても有名で、意匠の由来は瓜やキュウリ、木瓜の果実の断面説、木瓜などバラ科植物の花弁説、鳥の巣説といった諸説がありますが、はっきりとした由来はわかっていません。
その他の信長公の家紋
織田信長公のご事績
戦国の世
今から約450年前、16世紀後半の日本は室町幕府の力が衰え、各地に群雄が割拠し戦乱が絶えない戦国時代のまっただ中にありました。世は兵乱の巷、一大修羅場と化し、京都の町も絶えず兵火に襲われて市街の大半は焼け野原となり人心は荒みに荒んでいました。京都御所も荒廃し、宮中の儀式も満足に行うことができず皇室の式微も正親町天皇の御代にはその極に達しました。
なれや知る都は野辺の夕ひばり
あがるを見ても落つる涙は
─ 飯尾彦六左衛門 ─
信長公の天下統一
天文3年(1534)尾張南部で勢力を拡大しつつあった織田信秀の嫡男として生まれた織田信長公は、永禄2年(1559)尾張をほぼ統一し、永禄3年(1560)5月駿河の今川義元を桶狭間の戦いに倒し、天下統一の大志を抱いて立ち上がりました。
(京都の再興)
永禄10年(1567)稲葉山城を攻略し美濃を平定した信長公は、永禄11年(1568)正親町天皇の勅命を拝して京都に上り、皇居の修理に着手し、宮中が収入面で困らないように財政措置を講じるとともに市民の賦税を免じて京都の再興に尽力されました。
(軍事政策)
信長公は天下統一という理想をともに奉ずる多くの人材を身分の上下、出身地のいかんを問わず抜擢し、兵農分離によって職業軍人制度を導入し、鉄砲の改良・量産や大砲を備えた大型軍船の建造など技術開発にも努め機動性に富む強力な軍団を作り上げました。元亀元年(1570)には姉川の戦いにて浅井・朝倉両氏を破り、天正3年(1575)長篠の戦いでは武田勝頼に大勝するなど各地を平定していかれました。
(経済政策)
新たに勢力圏内に収めた地域では楽市楽座、関所の撤廃、街道の整備、貨幣制度の整備などにより自由競争を促進し物資の流通をさかんにして商工業の発展に力を注ぎました。その後江戸時代の日本ではさらに街道整備が進み人馬物資の往来が活発に行われるようになりますが、信長公の経済政策は江戸時代さらには現代日本の経済発展にもつながる先駆的な政策であったといえます。
(政教分離)
また世俗化し武装して政治介入していた仏教勢力に対し比叡山延暦寺の焼討ち、各地の一向一揆鎮圧、石山本願寺との和議等を通じて政治力・軍事力を奪い政治と宗教を分離するという難事業をほぼ完成させました。政治と宗教の分離は近代国家成立の前提となるものですが、ヨーロッパで政治と宗教の分離が進められるようになったのは16-17世紀の宗教戦争以降のことであり、信長公の先見性・先進性がよくわかります。
(外交政策)
16世紀の世界は大航海時代と呼ばれ、ポルトガルやスペインが世界各地を植民地化していった時代でした。日本にも1543年に鉄砲が伝来し、1549年にキリスト教が伝えられ、16世紀後半にはポルトガルの商船が頻繁に来航するようになっていました。信長公は、永禄12年(1569)に初めてキリスト教の宣教師と面会すると、以後南蛮寺(教会)やセミナリヨ(神学校)の建設を許可するなどキリスト教を保護し、また宣教師を通じて科学的知識を吸収し世界情勢を把握する一方で、宣教師とは距離を保ち、彼らに依存することなく独自に経済力軍事力を強化して天下統一を進め、日本の植民地化を未然に防ぎました。
(その他)
信長公は南蛮文化を摂取する一方、能・茶の湯・囲碁・馬術・鷹狩・相撲等を奨励して人心の安定に尽力されました。また石清水八幡宮や熱田神宮を修復し、長く途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮にも着手されました。
偉大な御事跡
このようにして信長公は戦国時代に終止符を打ち、日本統一の道筋をつけ、民衆を疲弊絶望から救い、消滅しかけていた伝統文化に躍動の美を与え、遠くヨーロッパ文明に着目し、日本を取り巻く世界情勢を的確に把握し富国強兵に努め、日本の歴史を中世の混乱から近代の黎明へと導かれました。
信長公は平和で豊かな世の中を創り上げるために、既存の概念にとらわれず大局的な見地に立って確固たる信念のもと、行き詰った旧来の政治・社会秩序・腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民全体の日本を敬神尊皇の理念のもとに追求されました。実に信長公の卓越した見識と果断な実行力がなければ、日本の近代化は大きく遅れることになったでありましょう。
しかし惜しいことに信長公の偉業は天正10年(1582)6月2日未明、本能寺の変により中道にして倒れたのであります。
秀吉による大法要
豊臣秀吉は主君の凶報を耳にし直ちに山崎の戦によって明智光秀を討ち、紫野の大徳寺において7日間の盛大な大法要を営みました。さらに信長公の霊をなぐさめるために船岡山に寺を建立し信長像を安置しようとして正親町天皇より天正寺の寺号を賜りました。しかし寺の竣工は中途に終わり、その後船岡山は信長公の霊地として大切に保護され明治維新に至りました。
織田信忠卿のご事績
織田信忠卿は弘治3年(1557)、信長公の嫡男として尾張清州城で生まれ、元亀3年(1572)に元服、同年近江の浅井長政攻めに初陣後、伊勢長島一向一揆との戦いや長篠の戦いに出陣し勝利に貢献されました。
天正3年(1575)、信長公は信忠卿に家督を譲ることを決め、天正4年には織田家の本領ともいえる尾張・美濃両国を与えました。信忠卿は岐阜城を拠点として、紀伊の雑賀衆攻めや松永久秀の征伐など各地を転戦、天正10年(1582)には武田勝頼征伐に先陣を切って活躍されました。
武田氏を滅ぼし凱旋した信忠卿は信長公から甲州攻めの第一の功労者として称賛され、後継者としてさらなる活躍が期待されていました。しかし惜しいことに、同年6月2日の本能寺の変により信長公が斃れられ、上洛し妙覚寺に滞在していた信忠卿も、急報を受けて本能寺に駆けつけ、さらに二条御所に入って誠仁親王の安全を確保した上で明智光秀の大軍と戦い、26歳の若さで討死されました。