船岡山の概要
船岡山は標高112メートル(比高45メートル)、周囲1300メートル、面積2万5千坪の優美な小山であり、東南側は建勲神社の境内、西北側は船岡山公園(京都市の都市計画公園第一号として昭和10年に開設)となっており、市街地にありながら、緑豊かな自然が保たれています。
聖徳太子の文献にもその名が出ており、又、1200年前、京都に都が定められた時、中国の陰陽五行思想、風水思想に基づいて、龍気みなぎる地形であり、大地の気がほとばしり、溢れ出る玄武の小山であると卜せられ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となりました。今も神社境内の船岡妙見社に玄武大神が祀られています。
平安朝の昔には清少納言が枕草子で「丘は船岡・・・」と讃えるほか、大宮人の清遊の地として多くの和歌が残されています。
船岡に若菜つみつつ君がため
子の日の松の千世をおくらむ
─ 清原元輔 ─
子の日してよはひをのぶる船岡は
松の千年をつめるなりけり
─ 源経信 ─
船岡のわたりにさける卯の花は
汀によする浪かとぞみる
─ 永縁 ─
春毎にこがれやすらん船岡は
わらびもえ出るわたりなりけり
─ 藤原俊成 ─
戦国時代の応仁の大乱(1467~1477年)の際、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれています。また永正8年(1511)の足利将軍家及び細川家の内紛の際にも、船岡山に陣地が置かれました。
天正10(1582)年、本能寺の変の後、豊臣秀吉は大徳寺において信長公の盛大な.法要を営み、その霊をなぐさめるために船岡山に寺を建立しようとしました。その計画は立ち消えになったものの、その後も船岡山は信長公の霊地として大切に保護されてきました。
船岡山は、昭和6年(1931)に京都市風致地区に、昭和43年(1968)に国の史跡に、平成7年(1995)に京都府の『京都の自然200選』に指定されています。
船岡山の地形と地質
船岡山は、京都盆地の西北に位置する大文字山(通称左大文字山)の南山麓にある金閣寺の東方900mに位置します。標高約112m、長径約500m、周囲約1300m、面積約82,500㎡(約2万5千坪)の船状の小丘で、西北西より東南東の方向に横たわっています。
山は中央よりやや西で、北峰と南峰の2つに分かれていて、その間に西に開く凹地ができています。山は全体としてはなだらかな傾斜をもっていますが、東部及び東北部には急傾斜部があります。
山頂は南峰の中央にあって、長径約120mの長楕円形の平坦地をなしており、明治36年(1903)に三等三角点(北緯35度2分8秒756、東経 135度44分40秒417、標高111.89m)が設置されています。山麓と山頂との標高差(比高)は東南部で約45m、西北部で約30mとなっています。
船岡山は岩盤でできており、岩盤の露出する所が多いですが、その他の部分は、未固結の岩盤の風化生成物及び腐食からなる土壌が基盤岩を薄く覆っています。
船岡山の岩盤は、丹波山地から続く基盤岩が金閣寺辺りでいったん地下に入り東に伸び、再び地上に盛り上がった部分であり、船岡山の東南東にあたる建勲神社大鳥居あたりで再び地下に入りさらに東に伸び、烏丸通りの烏丸中学の校庭に露頭し、その後急激に地下にもぐっているといいます。
船岡山の岩盤はチャートと呼ばれる堆積岩で、その走向並びに傾斜方向は愛宕山塊のチャートと一致しており、丹波層群と呼ばれる地層群に属しています。
丹波層群は、古生代の石炭紀(約3億6千万年前から約3億年前)から中生代のジュラ紀(約2億年前から約1億5千万年前)にかけてアジア大陸東側の海底で形成された後隆起した地層群であり、大陸から流出した泥や砂からできた泥岩や砂岩、大陸から離れた深海底で生成されたチャート、サンゴやフズリナなどが堆積してできた石灰岩からなる地層が混在しています。
チャートは大陸から遠く離れた深い海の底で放散虫などの珪質プランクトンの遺骸が静かに降り積もって生成され、海洋プレートの北上によりアジア大陸の東側に到達し、大陸の下へと沈み込む際に、その一部が大陸側に付加されたと考えられています。生成後長い年月を経過し相当な高温高圧下に長時間置かれた結果、非晶質の二酸化珪素(SiO₂)が結晶化して石英となったもので、化学的には二酸化珪素(SiO₂)を90%以上含む硬くて風化しにくい堆積岩です。基質は微小石英結晶ですが、その他に微小や短冊形の石英よりやや複屈折率の高い鉱物がほぼ一様に混在しています。
チャートは厚さ数センチの珪質層と数ミリの泥質層が交互に積み重なって層状をなすことが多く、このような層状チャートは日本列島の山地を形成する中・古生代の地層によく見られるもので、船岡山のチャートも層状をなしています。