大和祭 宮司あいさつ
「近代的自我の観念について」

本日は神石大平和敬神48年目の大和祭に当り、皆様ご多用の中、本当によくご参列賜りました。又、日頃は神石の清掃奉仕を頂き厚く御礼申し上げます。
思えば今から48年昔、神石大平和敬神の除幕式の日、出居清太郎教祖、出居菊乃会母総裁を始め、この広場を埋め尽くす捧誠会々員方が列席される中、西内清子さんが世話人代表として晴れがましく、この場におられたのが昨日の事のように思い出されます。実は私、昨年夏に西内清子さんのお墓参りに高知に行って参りました。西内清子さんのおいごさんが、立派にお墓を守っておられ、感慨深くお参りさせていただきました。

さて最近、凶悪犯罪を犯しても、精神鑑定をして犯行当時、善悪の判断ができない状態だったとして無罪になることが時に見かけられ、我々一般人としては釈然としない思いをいだくことがあります。人間はだれしも状況次第で殺人者にもなるし、聖人君子のような人間になることもあり、人は極めて幅があるものです。しかるに近代的自我の観念では、人格も性格も各自確乎としたものがあり、一人一人のアイデンティティが確立されていて生涯続くとしています。こういう考え方は、西洋人の考え方というより、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の考え方であって、人間は各自神と対峙して存在し、死後も霊魂が存続し、いつの日かこの世に復活してくるその時、肉体も性格も死んだ時と全く同じと考える訳です。
これに対し、日本古来の考え方は、人は神と対峙して存在するのでなく、大自然の中で生かされて存在し、むしろ大自然の一部であって、遠い祖先から永遠の子孫まで連綿と続く輪の一環であり、連続性の中に存在すると考え、死んだ後は、そのままの姿で復活するのではなく、肉体や性格は姿を変えて子や孫に生まれ変わってくるという感覚が強いと思われます。
仏教でも人間一人一人に確乎としたアイデンティティがあるとは全く認めていませんし、霊魂の有無さえも一切明言していません。死後の事は、仏教各宗派で随分考え方が違っていますが、チベット仏教では人は死ぬと光となって、大宇宙の中に放射されると考えています。曹洞宗の道元禅師は光は光でも太陽光でなく月の光をイメージされているようであります。
この様に一人一人の人間の自我は確立されていて、生涯変わらないものとして、我々は近代的アイデンティティを近代法律体系の前提として認めているものの、何か釈然としないものが残っているのは、このように宗教の違いに起因するようでありまして、心の深い深いところでの認識の差によるものと思われます。
ところで間もなく亡くなる人を見舞うと、ほとんどの人が仲違いしている人と仲直りしたい、家族の大切さをしみじみ思い、自分がそう思っている事を家族に伝えてほしいと、異口同音にいうと言われています。自分の人格アイデンティティと思っているものも実はフィクションであって、死ぬ間際にほどけていくようであります。元気に年を重ねると、片意地な人格がほどけてきて、自分のありのままを感謝する心が芽生え、心安らかに楽しく生きていける特技を手にすることが出来るのであります。捧誠会の皆様は是非長生きして、その様なすばらしい境地で老後を送られます様お祈り申し上げます。

本日は皆様、ご多忙の中本当によくご参列賜りました。皆様のご健勝を祈念し、修養団捧誠会が出居徳久総裁の下、ますます発展されますようお祈り申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。

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