大和祭 宮司あいさつ
「隠れキリシタンの信仰、日本仏教、日本神話」

一言ご挨拶申し上げます。皆様ご多忙の中、今年も神石大平和敬神の大前にお集り頂き、例年の如く大和祭を執り行う事ができ、本当に有難うございます。又、日頃は各支部の皆様には清掃奉仕を給わり、おかげで境内がいつも清々しい雰囲気となり、何よりも嬉しい事であります。

さて本日は皆様に隠れキリシタンについてお話申し上げたいと存じます。隠れキリシタンといいますと、これまでどのような弾圧が行われたかとか、踏絵のやり方、宗門改めがどうだったかといった事が主に研究されてきましたが、最近は隠れキリシタンの教えそのものが研究され、キリスト教が次第に日本化される様子が明らかになって参り、大変興味深いものがございます。1549年フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教は急激に日本に広がりました。当時宣教師が本国に送った報告書によると「日本人はキリスト教の教理を理論的に実によく理解するが、人間が神との約束を破った為、生まれながらに背負っている原罪はキリスト教に帰依しない限り許されない、従ってキリスト教を知らずに死んでしまった父親母親は永遠に罪を背負うという教理に対しては大変悲しむ」と書かれています。
その後、江戸幕府によって徹底した禁教令が発布され、江戸末期まで200年余り一人の宗教指導者もなく信徒のみが残され、隠れキリシタンとして信仰を続けました。そして次第に大きくその教えが変わってきております。つまり唯一の創造神というキリスト教の第一の柱は江戸末期までしっかりとそのまま伝えられましたが、もう一つの柱である原罪というものがすっかり変わってしまっており、原罪はキリスト死後400年ですべて許され、なくなったとされています。日本人にとっては愛に満ちた神様がいつまでも人間に原罪を背負わせ許さないという事はどうしても考えられないというのが日本人の根本的な思いになっているのでしょう。
仏教でも、例えば浄土真宗では修行をしっかりしないと極楽に行けないとか、この世で余程正しい生活をした人だけが極楽に行ける、そうでない人は罰として地獄に落ちるとかいうのではなく「南無阿弥陀仏」と称えれば誰でも極楽に行けるというものであり、親鸞聖人は極楽往生は弥陀の本願によりとうに決まっている。それに対し門徒たるものは唯感謝の称名を唱えるべしと説いておられます。
親鸞聖人の教えにしましても、隠れキリシタンの教えにしましても、仏様神様は幼子をいつくしむ親のように人間をやさしく包んでくれており、人間はその仏様なり神様に安心して信頼を寄せ、感謝するという形に仏教なりキリスト教なりが変質しているのであります。日本人は神と人と自然を峻別し、厳しい罪と罰、それを克服する確固とした信仰といった考え方に昔からなじみにくかったようであります。
この事は古代の人々が残した神話とか、語り伝えられている民話の筋立てなどにもはっきり表れています。世界の民族の神話の中で各民族共通によくあるお話は「見てはいけないという禁止を破った」お話であります。日本の神話では禁止を破ったものに厳しい罰が科されることはなく、例えばホオリノミコトは妻であるトヨタマヒメの禁止を破って出産の様子を覗き見し、トヨタマヒメが八丈もあるサメの姿になっているのを見てしまいます。妻は、恥ずかしがって海に帰ってしまいますが、禁止を破ったことへの報復行動にはつながらず、お互いに和歌を交換して話は終わっております。洵に味わいある日本的な人と自然が一体となっている神話であります。
民話「鶴の恩返し」では、鶴が女性に変身して自分を助けてくれた男と結婚し、恩返しに自分の羽をぬいて織物をつくります。自分が織物を織っている間は決して自分を見ないように言うのですが、男はこの「見るな」の禁をあるとき破ってしまいます。女性は禁止を破った男に罰を与えるのではなく、鶴の姿になって大空の中に飛んで行ってしまうというお話で、これを読んだ我々は、何とも言えぬ自然と人間の美しさ、悲しさを感じる訳で、このお話のラストシーンの中に本居宣長のいう“もののあわれ”を実感する訳であります。

本日は、隠れキリシタンの信仰、親鸞聖人の日本的仏教、日本神話の共通する我々日本人の宗教的感性につきお話させて頂きました。捧誠会の皆様に何らかのご参考になれば幸せです。本日は皆様ご参列賜り本当に有難うございました。

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