本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡大祭は、ご祭神である織田信長公の偉大な功勲を後世に伝えようと毎年10月19日に行われているお祭りで、明治時代より地元の西陣各学区の協賛のもと執り行われてまいりました。
この週末は全国的に雨模様となり、京都でも今朝まで雨が降っていましたが、幸い雨も止み、お祭りの途中には晴れ間も見えるなどお天気に恵まれ、また各地からゆかりの方々のご参列も得まして、こうして厳かに船岡大祭を執り行うことができましたこと、厚く御礼申し上げます。
さて建勲神社は、正式には「たけいさおじんじゃ」といいます。明治2年に明治天皇により創建された神社ですが、実は当初は「健織田社」とのご社号を賜りました。しかし翌年の明治3年に明治天皇から「建勲」と改称するようにとのご沙汰があり、改めて、現在の御社号を賜りました。そして船岡大祭の斎行される今日10月19日という日は、この「建勲」の御社号を改めて賜った社号宣下の日である明治3年10月19日を記念したもので、このことは大正5年の社務日誌から最近になってわかりました。
明治天皇から賜った 「建勲」という御社号は、勲を建てる、大いなる勲功をあげるという意味になります。「いさお」というのは勲章の勲であり、「公に対する偉大な功績」「皇室や国家のために尽くした功績」を意味しています。
信長公は戦国乱世を終わらせ天下統一に道筋をつけるという偉大な功績を挙げられていますが、群雄が割拠し、下剋上の風潮が広がる乱れた世の中にあって、敬神尊皇という日本古来の日本文化の根底にある価値観をもって、皇室の回復に尽力された大いなる勤王家として、江戸時代末期から戦前にかけては、高く評価されていました。
永禄11年(1568年)に信長公は正親町天皇の詔勅を受けて、足利義昭を擁して京都に上洛されましたが、京都の治安を回復し、畿内を平定されると、うち続く戦乱のため元の姿をとどめぬほど朽ち廃れてしまっていた内裏の修理をお命じになり、紫宸殿、清涼殿、内侍所をはじめ諸々の建物を3年かけて修復されています。また、京都市中の町人に米を貸付け、毎月その利息を宮中に献上するよう命じるなど宮中が収入面で困らないように様々な施策を講じました。また信長公の支援を受けて室町幕府の15代将軍となった足利義昭は、朝廷を重んじず権力を私物化しようとしたため、信長公は17ヶ条の意見書というのを提出しており、その第一条において毎年怠ることなく宮中に参内するよう具申しています。
このほか、熱田神宮の信長塀や石清水八幡宮の黄金の樋をご存知の方も多いと思いますが、信長公は熱田神宮、石清水八幡宮の修復や戦国乱世に120年ほど途絶えてしまっていた伊勢神宮の式年遷宮の再興のためにも多額のご寄進をされています。
このように信長公は皇室や神社を敬い大切にされたのですが、実は信長公の父親である織田信秀も戦国の乱世においては珍しく、非常に敬神尊皇の念の厚い人物でした。
信秀は、信長公が19歳の時に病気のため42歳で亡くなっていますが、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費用や皇居の修理費用を献上しています。父信秀の背中を見て育った信長公は、父親の思いをしっかりと受け継ぎ、日本古来の敬神尊皇の理念のもとに、平和で秩序ある豊かな世の中を創り上げるために邁進されたのです。
さて、私事で恐縮ですが、昨年の12月に、建勲神社名誉宮司であった父 松原宏 が帰幽いたしました。昨年の船岡大祭では体調が思わしくない中、毅然と社務所に正座し、笑顔でご参列の皆様に挨拶をしていた父の姿が今も目に浮かびます。父の不在は甚だ心許なくまた寂しいものでございますが、今後とも父の思いをしっかり受け継いで建勲神社の維持発展のために日々ご奉仕してまいる所存でございますので、どうぞ引き続きあたたかいご支援を賜わりますよう宜しくお願い申し上げます。
本日は皆様、ご多忙の中船岡大祭にご参列賜りまことに有り難うございました。
建勲神社の大神様のあらたかなご加護の下、どうぞ皆様が益々お元気に、お幸せにお暮らしなさいますようお祈り申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。この後、昨年雨天のため中止となりました「あづち信長出陣太鼓」の皆様による和太鼓の演奏が奉納されますので、どうぞこのまま今しばらくお待ちくださいますようお願いいたします。本日は、どうもありがとうございました。