船岡大祭 宮司あいさつ
「信長公と天下布武の印判」

本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が天下統一の為始めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からゆかりの方々のご参列を得て執り行うことが出来、洵に有難うございます。

さて昨今全国の神社で大変なご朱印ブームになっております事をお耳にされた方も多いと存じます。ご朱印と申しますと以前は比較的年配の方々のご趣味の様な感じでしたが、今のブームは若い女性が主体でありまして、しかもある戦国武将に関連する社寺を巡るとか、特定のアニメやゲームに登場する日本刀を所有する神社のみの朱印を集めるというもので既成の全国一の宮めぐりとか、西国三十三ヶ所めぐりとかでなく、各自の好みが反映されています。

建勲神社のご朱印は信長公の色々な文書、手紙に印されている“天下布武”の楕円形の印判と同様の朱印を使っており、さらに最近、当神社所蔵天下布武龍章大型朱印も併せて使用しております。天下布武は信長公の天下統一の大望をよく現わしており、信長公の理想、信長公の事跡を一言で表した文言であると申せましょう。
戦国時代は日本中が何十もの国に分かれていた訳でございますが、戦国大名は皆、京に上って天下統一を図ろうとしていた訳ではありません。武田信玄、上杉謙信にしろ、毛利元就にしろ、自分の領地をしっかり治め、少しでもその領地を広げようとしていましたが、天下統一の旗をはっきり掲げたのは信長公ただ一人でありました。従いまして、桶狭間の合戦で今川氏に勝利した信長公は東の方向にある今川氏の領土に目を向ける事なく、ひたすら逆の方向、西に進み、上洛して天下統一を図られたのであります。
上洛を実現した戦国大名は信長公以前に大内義興、上杉謙信他何人かおられますが、いずれも天下統一の為の上洛でなく室町幕府から官位を頂いてそのまま帰国しています。信長公は永禄11年10月19日上洛の際、室町幕府より管領、副将軍等の官位を全て辞退し、堺、大津、草津に代官を置く権限と、足利家が朝廷より使用を許されていた桐の紋を特に所望し、桐の紋を終生愛用されました。

又、信長公は尾張の本拠地清洲に全くこだわらず、清洲から小牧へ、小牧から岐阜に、岐阜から安土へと次々に本拠地を移動させ、それに伴って、配下の武将達、秀吉、明智光秀、柴田勝家、滝川一益等を次々新しい土地の代官として移動させました。これは他のどの戦国大名にも見られない事であります。
「天下布武」の文言は、美濃の地名を岐阜に変更した折、禅宗の澤彦和尚が信長公の天下統一の大志にふさわしい印判として定めたとの説もある様であります。
いずれにいたしましても、建勲神社にご朱印を求めにこられる若い方々も“天下布武”の印判は信長公のシンボルであると知り、さらに自分の足で各地の色々な神社をまわって日本の歴史をじかに知り、自然に日本の国柄を感じていかれる事は洵にすばらしい事であります。

本日は天下布武の印判は信長公の生涯の事跡を一言で一番よく表わしている事をお話しさせて頂きました。皆様、ご多用の中、船岡祭に本当によくご参列賜りました。どうぞ建勲神社の大神様のご加護の下、益々お健やかにお仕合せにお過ごし下さいますようお祈り申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。

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