船岡大祭 宮司あいさつ
「史跡船岡山について」

本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。船岡祭は信長公が天下統一の為始めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日も地元各学区の皆様はもとより各地よりご参列頂き、又、古式砲術流儀保存研究会の皆様には今年も火縄銃の三段撃ちご奉納でお祭に花を添えて頂く事となり有難く厚く御礼申し上げます。

さて建勲神社が鎮座いたしておりますこの船岡山は小さな小山でありますが文部省により昭和43年に国の史跡に指定されております。建物や美術工芸品は国により国宝や重要文化財に指定されますが、土地は国宝に相当するものが特別史跡、重要文化財に相当するものが史跡であります。従いまして建勲神社の境内がすべて国の史跡であるという事は大変な事であります。この度、西陣のある匿名の方の寄進があり、文部省からの補助金も受けまして南参道に“史跡船岡山”という高さ3メートルの石の標柱と説明板を新設させて頂きました。これにより地元の皆様、特に小中学生に郷土について認識を深めて頂き、又、遠くから訪れる方々にはより意義深くご参詣頂ければと存じます。

文部省が船岡山を史跡に指定した理由でありますが、まず今より1200年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点になり、この山の真南が大極殿、朱雀大路となりました。これは陰陽五行思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気の溢れ出る玄武の小山であるとされた為であります。
平安朝の昔には清少納言が枕草子で「岡は船岡」と称え、又、藤原俊成、清原元輔等多くの和歌が残されており、船岡山は平安京の人々が若菜摘み、わらび採りに興じる清遊の地でありました。
戦国時代の応仁の乱の際にはこの船岡山が西軍の陣地となり、船岡山周辺一帯はその後西陣の名で呼ばれるようになりました。この戦国の世を統一して太平の世を開いた織田信長が本能寺の変で没すると豊臣秀吉は時の正親町天皇の勅許を得て主君信長公の御魂をこの船岡山に祀ろうとしました。以来船岡山は信長公の大切な地として伝えられ明治2年明治天皇がここに建勲神社を創建されました。

この様に日本の歴史の重要な舞台にしばしば登場した船岡山を文部省は指定基準に基づいて国の史跡に指定した訳であります。なお京都府は平成7年に新たに「京都の自然二百選」を制定しました。船岡山はその第1号に選定されています。又、京都市は「風致地区」という制度を昭和5年に新設しましたが、船岡山は最も早い時期に指定されています。
本日宜しければ、南参道の中程に新設されましたこの石標と説明板をどうぞ御覧になってくださいませ。

本日はご多用の中ご参列賜りまことに有難うございました。どうか皆様には建勲神社の大神様のあらたかなご加護の下、益々お元気にご発展なさいますようお祈り申し上げます。有難うございました。

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