船岡大祭 宮司あいさつ
「明治初期の信長観」

本日は皆様お忙しいところ船岡祭にご参列頂きまことに有難うございます。ご多忙の中毎年毎年このようにご参列賜り建勲神社の大神様をご崇敬頂きます事は本当に有難いことでございます。又、ご来賓として今年も信長公にゆかり深い愛知県清洲町の花木和彦町長様、織田家発祥の地であります福井県織田町の武田直登町長様にご参列頂きました。

さて皆様ご高承の如く建勲神社は明治2年明治天皇により創建されこの社殿も全て明治初年に建てられました。又、ご宝物も明治初期のものが多く、その中でこの程、琵琶、琴等楽器類の調査があり、非常に貴重なものと折紙をつけて頂き、本日皆様にご覧頂きたく、そちら東館に飾らせて頂いております。
又、明治の始め建勲神社の初代宮司津田長興氏の筆によります掛け軸も一緒に飾らせて頂いております。この掛け軸は先般NHKの「その時歴史が動いた桶狭間合戦」という番組の中で左文字の太刀と共に放映されたものですが、王政復古の明治初年の信長観らしく尊皇の英雄として信長公をとらえたものです。「天津日をひとりあふきてみかとへにたてし勲の高くもあるかな」、つまり、戦国時代、世の中は乱れに乱れ全ての秩序が崩壊した時、黒雲が天を覆い、天津日つまり太陽が見えなくなった如く、国の中心たる天皇の存在が全くわからなくなった時、ひとり信長公は天津日をあおぎ、尊皇敬神の理念のもと、大平の世を作られた朝廷への功績、たてし勲は高くもあるかなという趣旨の和歌であります。
今のように平和な世の中に住んでいますと尊皇といわれても余りピンとこない訳ですが、黒船到来以降国の存亡が危うくなり、ようやく明治維新を迎えたこの時代の人々は国の中心、天皇を尊ぶという感覚を素直に理解できていたようであります。
今では信長公の事は日本の社会を遅れた中世から近代の黎明へと導かれた英雄、変革者としてとらえており、時代により信長像も随分変わってくるものだと思います。桶狭間の合戦にしましても、従来は少ない兵で大軍を勇猛果敢に攻めた奇襲戦ととらえてきましたが、先般のNHKのテレビでは敵の本拠をつきとめた信長公の情報戦の勝利というとらえ方をしていました。
明治初年の宝物をご覧頂く際、できれば明治天皇のご宸筆や御物を一緒に展示できればと存じ、本日ご参列の塩川利貞様のご厚意により大阪青山学院資料館より拝借し展示しましたので併せてご覧下さい。

さて先般建勲神社のふもとの大鳥居を大改修させて頂きました。朱塗の鳥居でなく、素木の鳥居としては建勲神社の大鳥居は全国屈指のものとのことで特に京都府より補助金を頂くことができました。この場でご報告申し上げます。

本日は皆様ご参列賜りまことに有難うございました。どうか建勲神社の大神様のご加護を享けられ、益々ご壮健にご発展なさいますようお祈り申し上げます。有難うございました。

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