本日は皆様船岡大祭にご参列給わりまことに有難うございます。船岡祭は織田信長公が天下統一の為初めて上洛された永禄11年10月19日にちなむお祭で、毎年この日に西陣各学区の皆様により執り行われて参りました。本日はご祭神直系に当られます織田信孝様を始め各地からゆかりの方々のご参列を得て執り行うことが出来、洵に有難うございます。
さて信長公の時代、戦国時代は“下剋上”の世といわれ、臣下の者が主君を討って権力を握る事がその時代の風潮でありました。そうはいっても、なぜ明智光秀が信長公を裏切ったのかは、日本の歴史上、最大の謎の一つでありまして、歴史の専門家や小説家に限らず様々な人によって様々な説が提起されており、又、本能寺の変に関する新しい資料が発見され、新聞紙面を時々にぎわしておりますが、未だ腑に落ちる答えが出されていないままになっています。日本の歴史の中で邪馬台国はどこにあったかの謎と、本能寺の変の謎だけは誰がどんな風にいってもすっきりした答えとならないといわれています。
江戸時代の初めから本能寺の変の原因は色々といわれておりました。当初、光秀の裏表ある性格に帰因するとか、信長公から足蹴にして叱責された恨みを晴らすためだとかいわれておりました。しかしそれでは光秀が余りにつまらない人間にみえてきて、どうも納得できません。光秀は信長公が取り立てて織田軍団の第一位に抜擢しただけあって、武将としても極めて優秀であるばかりでなく、官吏としても実務能力抜群の第一級の人物でありました。
そこで本能寺の変の原因として四国土佐の長宗我部元親の取扱いに関して、光秀が板挟みになった史実を取り上げて原因と考えようとする説もひところ有力とされていましたが、もうひとつ説得力に欠けています。
次に光秀単独の謀反としていてはどうも納得性がないので、だれか黒幕がいて、光秀をそそのかしたとする説も一時盛んに唱えられました。テレビドラマのミステリーでも、この殺人事件により誰が得をしたかを考え、意外な人が犯人として浮かび上がってくるあの筋書きと同じで本能寺の変で一番得をしたのは豊臣秀吉であるところから、秀吉黒幕説、さらには家康黒幕説、公家のだれそれが黒幕だとか、いろいろな新説、珍説が唱えられましたが、黒幕にあやつられたとされる光秀には失礼な説であります。
そこで信長公の方に原因があると考え、僅か二、三十人の小姓を連れたのみで本能寺に泊まることは余りに信長公は大胆すぎる、信長公は人を信じすぎるのではないか、だから明智光秀の他、浅井長政や松永久秀等、何人かに裏切られたのではないかとしています。
ただ西洋の諺に「人を信じない人は人に裏切られることはない」と申します。確かに人を信頼しなければ当然裏切られる事はないわけですが、人を信頼せず自分一人だけでは人生で大きな仕事はとてもできません。信長公は四十九年の生涯で、天下統一という大事業を志し、実に多くの人の協力を得て、それに向かって邁進されました。信長公の天下統一の理想に共感し、信長公の大きな信頼に応えるべく命をかけてともに突き進んだ何十、何百の同志達の中で数人の人が途中で裏切ったのは、まあ仕方のない事だと思われます。
人間の心の中には、自分でさえ思いもよらぬ一面があって、人生のある場面で突然浮かび上がってくるものであります。信長公が本能寺で光秀の謀反を知って最後におっしゃった言葉と伝えられる「是非に及ばず」が、人間のこの本質を見据えた本能寺の変の答えを示唆していると思われます。
本日は皆様ご多用中、船岡祭に本当によくご参列賜りました。どうぞ建勲神社の大神様のご加護の下、益々お健やかにお仕合せにお過ごし下さいますようお祈り申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。