中日新聞 宮司寄稿
「信長公は神仏を恐れたか」

近江の安土町(滋賀県蒲生郡)にことし五月、安土城天主「信長の館」が完成し、天主閣最上階の見事な復元が人気を呼んでいるそうだ。昨今の信長ブームは、織田信長公をご祭神とする神社の宮司として大変喜ばしいことである。
ただ、「信長公は神仏を恐れず、無神論であった」との説が最近、盛んに言われているのが気になるところだ。中世のあの時代に神仏を恐れないことは素晴らしいこと、痛快なことと思う人も、逆にけしからぬこと、苦々しいことと思う人も、ともに、そのように受け止める向きが多いようだが、本当に信長公は宗教を否定し、無神論者であったのだろうか。
よく知られている通り、信長公は政治権力を振るっていた比叡山を焼き払い、教団がそのまま封建領主を兼ねていた一向宗を伊勢長島や越前で大弾圧した。しかし、これらは信長公が宗教そのものを否定されたものではなく、腐敗した宗教を嫌い、宗教による政治経済への介入を排除しようとされたものである。
中世の時代は、洋の東西を問わず、宗教が人間社会のあらゆる分野で大きな力を持っていた。西洋では長い宗教戦争、宗教改革によって、政治と宗教の分離が実現し、近代社会の扉が開かれた。それとほぼ同じころ、日本でも信長公によって政治経済と宗教の分離が実行され、これによって日本は東洋の中で、いち早く近代化に成功した。
従って信長公は仏教、神道、キリスト教などの宗派を問わず、純粋な宗教活動を積極的に育成された。キリシタンを保護して各地にセミナリヨを建てたり、信長塀で知られる熱田神宮、信長の黄金の樋で有名な石清水八幡宮をはじめ、多くの神社仏閣の修復に尽力された。二十年に一度の伊勢神宮式年遷宮は昨年めでたく行われたが、これは戦国時代百年余り途絶えていたものを信長公が再興されたのである。
信長公個人としても、策彦和尚や清玉上人と親交深く、人生最大のピンチ、桶狭間の合戦出陣に際し、熱田神宮に戦勝祈願をしたり、忠臣平手政秀の死に当たり、政秀寺を建立された。
ところで、キリシタン宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には信長公のことを“自己を神仏とみなし、安土城にて自己を礼拝させた”と記されている。しかし、こうした史実は日本のどんな歴史資料(貴族の日記などを含めて)にも見当たらない。
宣教師の記録は明治、大正のころから研究されているが、信頼性に欠けるものが多いとされてきた。それを最近、テレビドラマやクイズ番組などで歴史の新発見のように言われたりしている。フロイスの「日本史」は、大変長編で通読する人もまれであるが、日本の歴史を記したものではなく、キリシタンの布教の歴史を記したものである。
従ってキリシタンに協力的な人々は庶民であれ、仏僧であれ、大変褒めて書かれており、逆にキリシタンに反対の人々は極端に悪く書かれている。信長公に関しては、安土城の築城の際、仏寺を建立したころから、信長公に対する評価を一変させている。
ただ、「自己を神と考えている人物」という表現は、宣教師に敵対する為政者に対してしばしば使われている言葉で、キリシタンを弾圧した豊臣秀吉のこともフロイスは同じように「己を神として礼拝させようと、われわれデウスの教会を迫害している」「彼は生前神として礼拝されることを望んでいる」と記している。
京都市内の真ん中、船岡山の森の中に鎮まります信長公の神前にぬかずいていると、猛々しくもあらたかなそのご神威に打たれ、信長公こそ、人間の能力の偉大さとともに、その弱さ醜さを知り抜き、本当の意味で神仏とは何かをよく知っておられた方だと感じる次第である。(まつばら・ひろし=京都・建勲神社宮司)

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