信長公は、天下を統一し平和で近代的な社会を創り上げるという高い志をもち、この大理想を奉ずる多くの臣下を身分の上下、出身地のいかんを問わず抜擢し、ともに理想実現に邁進されました。永禄11(1568)年に上洛を果たし朝廷より官位を勧められたときも、信長公は生死をともにした功臣の賞を第一に願い出ておられます。
この信長公のご意思に基づき、神社創建の折に功臣36名を選び、各々の生涯において最も著名な事蹟を時代考証の元に三十六功臣の一人池田恒興の末裔、旧因州公の家臣、森本後彫氏の筆により三十六雄の精神が爽然と描出され、製額して拝殿に掲げることとなりました。
令和3年に三十六功臣画のリニューアル事業が実施され、令和3年10月19日以降は当初の板絵に代わり原画の絹絵をもとに作成された複製画を掲示することとなりました。
<第一期>
池田恒興、織田信光、織田広良、坂井政尚、佐久間信盛、柴田勝家、武井夕庵、道家尾張守、丹羽長秀、羽柴秀吉、平手政秀、簗田出羽守
<第二期>
稲葉一鉄、氏家卜全、蒲生氏郷、坂井久蔵、佐久間盛政、佐々成政、原田直政、平手汎秀、不破光治、細川藤孝、前田利家、森可成
<第三期>
猪子兵助、河尻秀隆、斎藤新五、菅谷長頼、滝川一益、福冨秀勝、堀秀政、村井貞勝、毛利新介、森蘭丸、山内一豊、湯浅甚助
令和4年を第一期として十二功臣ずつ拝殿に掲示し、毎年入替えにより3年間で一巡。
三十六功臣の略歴
(五十音順)
あ行
池田 恒興(信輝)
父恒利の代に摂津より美濃に移り織田信秀に出仕。母養徳院は信長の乳母であり、恒興は信長の乳兄弟である。信長の下で萱津の戦い、稲生の戦い、桶狭間の戦いに参戦。永禄4年(1561)軽海の戦いで敵将稲葉又右衛門を佐々成政と二人で討ち取る。元亀元年(1570)犬山城と其の周辺の地一万貫を与えられる。天正2年(1574)武田軍の抑えとして東美濃の小里城に入る。その後摂津の地を与えられ、伊丹城を居城とする。天正10年(1582)本能寺の変後、山崎の戦いに参加し勝利に貢献。清洲会議に参加。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは秀吉につくが、娘婿森長可、長男紀伊守元助とともに長久手にて討死。二男の輝政は生き残り、関が原の戦い後、播磨国姫路城主となり、池田家は存続した。
稲葉 一鉄
稲葉通則の第六子として美濃国池田郡本郷にて誕生。幼少のころに僧となり修行していたが、牧田ヶ原の戦い(土岐頼芸と浅井・朝倉軍の戦い)で父兄戦死後還俗し曽根城主となり、土岐氏に従い各地を転戦。土岐氏没落後は斎藤道三・義龍・龍興に仕える。永禄10年(1567)に龍興を見限って、氏家卜全、安藤守就とともに信長方につき、稲葉山城攻略・美濃平定に協力。以後、美濃三人衆の一人として信長軍の一翼を担う。姉川の戦いでは勝利に大いに貢献した。学問にも造詣が深く、讒言により信長に疑われ茶室に招かれ暗殺されかかったとき、掛物の絵の漢詩をすらすらと読みその意味を説明し、信長を感服させて許されたという有名な逸話が残っている。天正10年(1582)本能寺の変後は秀吉について知行を安堵された。
猪子 兵助
猪子弥兵衛の三男。美濃の斎藤道三に仕えその後犬山城主織田信清に仕えたとされる。永禄7年(1564)犬山城落城後、信長の家臣団に組み込まれる。以後信長の側近として活躍、永禄12年(1569)伊勢平定の戦い、元亀元年(1570)姉川の戦い、元亀2年(1571)伊勢長島一向一揆攻めなどに参戦。元亀2年8月、柴田勝家が近江一向一揆の掃討にあたった際には信長の軍使を務めた。天正4年(1576)の石山本願寺攻めでは検使役として天王寺砦の請取り役として遣わされ、味方の将兵の働きを敵の情勢とともに信長に報告している。天正5年(1577)の雑賀・根来の一向一揆征伐に際しても軍使として従軍。天正10年(1582)本能寺の変に際し、二条御所にて討死。
氏家 卜全
大垣市楽田城主。永禄2年(1559)大垣城へ移ったとされる。斎藤道三・義龍・龍興に仕えた後、永禄10年(1567)に稲葉一鉄、安藤守就とともに信長に降り、稲葉山城攻略・美濃平定に協力。以後、美濃三人衆の一人として信長軍の一翼を担う。永禄11年(1568)近江箕作城攻め、同12年(1569)伊勢大河内城攻め、元亀元年(1570)近江穴太の戦いなどに参戦。元亀2年(1571)5月の伊勢長島攻めで退却の際に柴田勝家とともに殿を務め一揆軍と戦って討死。卜全の戦死後、その子氏家直通(直重)が後を継いで大垣城主となり、引き続き美濃三人衆の一人として天正元年(1573)の越前朝倉攻め、同2年長島攻め、同3年長篠の戦い、越前一揆討伐戦など各地を転戦し信長軍の中核を担った。
織田 広良(信業)
信長の父信秀の弟津田与次郎信康の次男。信長の従兄弟にあたる。父信康は犬山城を本拠とし信秀に協力し各地を転戦、天文11年(1542)小豆坂の今川氏との合戦においては「小豆坂の七本槍」の一人として活躍するが、天文16年(1547)9月、美濃の斎藤道三との戦いにて討死。広良は信長に仕え、永禄4年(1561)5月に美濃攻略戦における最前線の拠点として新たに構築された美濃十九条城に城番として配される。反撃に繰り出してきた斎藤勢との戦い(軽海・十九条の合戦)において先陣を買って出て斎藤方の豪勇牧村政倫を撃ち破るがその後討死。なお広良の戦死後広良の兄信清は信長に敵対し、永禄7年(1564)信長の総攻撃を受けて武田家に亡命している。
織田 信光
信長の父信秀の弟。尾張守山城主。武勇に優れ天文11年(1542)8月の今川軍との小豆坂での戦いにおいて活躍した「小豆坂の七本槍」の一人。信秀が42歳で急死し信長が家督を継ぐと信長に全面的に協力し信長の後ろ楯となる。天文21年(1552)清洲織田家との萱津の戦いに信長と連合して勝利。天文23年(1554)には今川配下の尾張村木城攻略を支援。弘治元年(1555)清洲織田家の家老坂井大膳の申し出に応じて清洲城に入るが、従前からの信長との密約により坂井大膳を追い出し織田彦五郎信友を自害させ、尾張における信長の勢力拡大に大きく貢献。清洲城に信長が入城後、信長の居城であった那古野城主となるが、その半年後、家老の坂井孫八郎の謀反により死亡。
か行
蒲生 氏郷(教秀)
父賢秀は近江日野城主で六角氏に仕えたが永禄11年(1568)に信長上洛の折、臣従。その際、嫡子であった教秀は岐阜城へ人質として差し出され信長の小姓として出仕。信長との軍談に熱心に耳を傾ける教秀を稲葉一鉄がいずれ良き将になると賞賛したという。翌12年伊勢大河内城攻めに初陣。信長は非凡であった教秀を大変気に入り、同年、娘冬姫と結婚させ日野城に帰還させた。以後、武将の一人として戦歴を重ね信長家臣団の中で前田利家とならぶ出世頭となる。天正10年(1582)本能寺の変後、信長の家族を日野城にかくまい籠城。秀吉の配下となり秀吉の統一戦にて戦功をあげる。やがて会津若松城主となり氏郷と改名。奥州における秀吉の重鎮として徳川家康、伊達政宗を押さえる役割。キリスト教に帰依。千利休門下七哲の一人。
河尻 秀隆(重能)
愛知郡岩崎村の出身。若くして織田信秀に仕え、天文11年(1542)今川義元との小豆坂合戦ではわずか16歳で敵将を討ち取る。永禄3年(1560)桶狭間の戦いにも参加。永禄8年(1565)頃8月の中濃の猿啄城、堂洞城攻略戦に勇猛果敢に戦い功績を挙げ猿啄城(勝山城と改称)主を命ぜられる。引き続き信長に随身し各地を転戦。その後信忠軍団に属し、天正2年(1574)武田勝頼の土岐郡進出を食い止めるため神箆城に入り、天正3年(1575)長篠の戦いに参戦、同年11月には武田勝頼配下の美濃岩村城を攻略し岩村城主となる。天正10年(1582)2月信忠を補佐し武田攻めに貢献。武田勝頼自刃後、甲斐国と信濃国諏訪郡を与えられるが、そのわずか数ヶ月後に本能寺の変が起こり武田残党に襲撃され殺害される。
さ行
斎藤 新五
斎藤道三の実子といわれ、義龍の腹違いの弟とみられる。弘治2年(1556)道三が義龍に討たれる前後に美濃を脱し信長のもとに寄寓。永禄8年(1565)加治田・絹丸以下2千2百貫弱の所領を与えられる。元亀元年(1570)小谷城攻め、同3年の河内国交野での戦い、同4年槙島城攻めなど各地を転戦。天正2年(1574)の伊勢長島攻めでは信忠の指揮下に入っている。天正6年(1578)上杉謙信没後、越中に派遣され、太田保月岡野での戦いにて大きな戦功を挙げた。天正10年(1582)、本能寺の変に際し、二条城の信忠とともに討死。妻は美濃加治田城主で信長に内応して中濃攻略に貢献した佐藤紀伊守の娘。子孫は備前池田藩家臣として明治まで存続した。
坂井 久蔵
尾張楽田城主坂井政尚の嫡男。永禄11年(1568)信長上洛の途上、近江佐々木六角氏を箕作城に攻めた際に13歳で敵の首を挙げ信長を感銘させ、足利義昭から感状を下されたという。元亀元年(1570)4月越前の朝倉征伐の際、浅井長政の離反により信長軍は金ヶ崎城から辛うじて退却、同年6月に改めて浅井長政を小谷城に攻め、続いて姉川の戦いとなる。16歳で父に従い姉川の戦いに先鋒として参戦した坂井久蔵は味方が初戦に敗退し退却する中、敢然と踏みとどまり奮戦し遂に討死。その壮烈な戦死は敵味方の賞賛を呼んだとされる。父政尚も同年11月近江堅田で浅井・朝倉連合軍と戦い討死。弟の坂井越中守が坂井家を継ぎ信忠配下で活躍するが、天正10年(1582)本能寺の変に際し二条御所で信忠と共に討死した。
坂井 政尚
尾張の林村(現小牧市)に土着の余語盛政の二男。信長に仕え命により美濃の坂井下総守の養子となったとされる。美濃出身で初め斎藤氏に仕えたとの説もある。尾張楽田城主。信長の美濃入後から側近の一人として執務したとみられる。永禄11年(1568)に信長の上洛に従軍、東福寺に陣し柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成とともに岩成主税の勝竜寺城を攻める。同12年(1569)8月伊勢大河内城攻めに参戦。元亀元年(1970)4月の越前攻め、6月の小谷城攻めに参加、続く姉川の戦いでは先鋒を務め嫡男久蔵を失うが勝利に貢献。同年11月、大将として派遣され、猪飼甚助等の内通により、近江堅田の朝倉方の兵糧庫であった堅田寺城を奪う。しかし翌日浅井・朝倉連合軍に攻められ奮戦したものの戦死。
佐久間 信盛
信長の古くからの重臣で家老格として仕え行動を共にするが、晩年は信長の怒りに触れ不遇であった。桶狭間の戦い後、尾張国山崎城主となり、元亀元年(1570)には近江国永原城に配置され、同年佐々木(六角)承禎が一揆に加担して蜂起した際これを殲滅するなど功績を挙げた。天正元年(1573)伊勢長島攻め、同3年長篠の戦いなど各地を転戦。天正4年(1676)本願寺攻めを任せられ息子甚九郎とともに天王寺城に入り本願寺攻囲戦の指揮を執る。しかし顕著な手柄を挙げることができず月日が経過し、天正8年(1580)に信長が朝廷を通じて本願寺との講和を成立させた後、信長より譴責状が発せられ高野山に追放される。翌9年熊野にて病没。天正10年(1582)1月、息子甚九郎は赦免され再び信長に仕えた。
佐久間 盛政
尾張国愛知郡の土豪佐久間盛次の子。母は柴田勝家の妹(姉との説もあり)。永禄11年(1568)信長が足利義昭を奉じて上洛した際に初陣。武勇に優れ天正4年(1576)には加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援に成功。天正8年佐久間信盛追放後、謹慎するも柴田勝家のとりなしで勝家軍に加わり、加賀平定戦に活躍し金沢城の前身の尾山城城主となる。天正9年2月京都で馬揃えのため主力武将が不在となった際、加賀一向一揆の残党が二曲城を襲撃。北陸の留守居をしていた盛政は直ちに駆けつけ城を奪回した。天正10年(1582)本能寺の変後、秀吉と勝家の対立が深まる中、勝家を補佐するが、天正11年賤ヶ岳の戦いにて敗北。その勇を惜しんだ秀吉から配下につくよう誘われたが勝家への忠節を曲げず5月に処刑された。
佐々 成政
尾張国春日井郡の生まれ。父の代から織田家に仕え、兄二人が稲生の戦い、桶狭間の戦いで討死し成政が後を継いだ。永禄4年(1561)の軽海の戦いで敵将稲葉又右衛門を池田恒興と二人で討ち取る功績。天正元年(1573)の朝倉軍追撃戦等に活躍。天正3年越前一向一揆平定後、前田利家、不破光治とともに越前二郡を与えられ府中城に入り府中三人衆と呼ばれた。天正8年越中攻めの中心となり、翌9年2月信長より越中を与えられ富山城城主として越中平定に全力を注ぐ。天正10年本能寺の変の際は上杉との抗争で越中に留まった。天正11年秀吉と和睦し従五位陸奥守に任命される。小牧長久手の戦いで秀吉と敵対するが降伏し許され、天正15年6月肥後熊本城主となるが、国衆一揆を自力で鎮圧できず秀吉に切腹を命ぜられた。
柴田 勝家
織田家仕官後、末森城主織田勘十郎信勝(信長の弟)付き家老となる。弘治2年(1556)、尾張稲生の合戦にて信勝をたてて信長に背き敗れるが信勝とともに赦免される。永禄元年(1558)信勝が再度謀反の際、信長に密告し、信勝の死後(信長病気と偽り誘殺)に信長の家臣となり以後美濃攻略を始め主要な戦いに主力武将として活躍、殿を務めることも多かった。元亀元年(1570)六角氏や浅井氏の抑えとして近江長光寺城に配され、天正2年(1574)には松永久秀により明け渡された多聞山城の城番も務めた。天正3年北陸方面郡の総帥として越前国統治を任され北ノ庄に城を築いて居住、天正5年には検地、4~6年に刀狩を行い、土木工事を奨励し産業の保護発展に努めた。天正11年、秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄にて切腹。
菅谷 長頼
本姓は織田。信長より菅谷(屋)姓を賜る。父信辰は織田信秀・信長に仕えた有力武将で「小豆坂の七本槍」の一人。桶狭間の合戦に先鋒を務め討死。家督を継いだ長頼は信長の馬廻衆となりその後側近吏僚に昇格し行政面で力量を発揮。永禄11年(1568)信長上洛の際は京の治安維持にあたり、元亀元年(1570)信長狙撃事件の処理を担当。天正2年(1574)蘭奢待切取り奉行を務め、同3年越前平定後織田大明神社(剣神社)の修復を担当、その後も織田奉行五人衆の一人として活躍。安土城下の町割奉行、神吉城攻め検使役、安土宗論の立会いなども務める。天正9年には能登、越中占領政務を担当。天正10年3月木曽義昌が信長謁見の際奏者を務めた。信長の嫡子信忠の付人衆の一人となり天正10年(1582)本能寺の変に際し二条御所にて討死。
た行
滝川 一益
近江甲賀郡の出身。伴氏の一族・大原氏の流れ。惣の掟に反し放浪、天文の終わり頃に信長に仕えたとみられる。永禄4年(1561)佐久間信盛とともに徳川家康のもとへ派遣され同盟締結交渉をまとめた。同年津島以西の服部勢を追い蟹江城を奪って本拠とし、続いて伊勢平定にあたり、永禄12年の大河内城攻囲戦にも参戦し北伊勢攻略に貢献。天正2年(1574)長島一向一揆平定後は、北伊勢5郡を任され長島を居城とした。長篠合戦、越前一向一揆攻め、雑賀攻め、北国攻め、播磨攻め、荒木攻め、伊賀攻めと各地を転戦。その後関東方面の司令官となり天正10年(1582)武田勝頼攻めに功を挙げ、上野国・信州2郡の統治を任せられる。同年6月本能寺の変後、北関東で独立するが北条氏に敗れ長島城へ戻る。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に属し没落。
武井 夕庵
初め美濃の斉藤氏に仕え文官・外交官として活躍した後、永禄10年(1567)の稲葉山城攻略前後から信長に仕え岐阜城に出仕。永禄12年岐阜城を訪れた山科言継の案内役や交渉窓口を務める。信長上洛に従い、右筆兼奉行の一員として京都周辺の政治に関与する一方、奏者も務めた。元亀2年(1571)から天正3年(1575)にかけての小早川氏や吉川氏あての秀吉の書状には夕庵が連署しており毛利氏との外交交渉も担当した。天正3年7月には秀吉や原田直政らとともに官位を授かり二位法印に叙せられる。信長の側近として信頼厚く安土城(天正4年正月に築城開始)の城内に信長から家屋敷を拝領している。桶狭間合戦に際し熱田神宮への必勝祈願文を作ったとされるがこれは誤り。
道家 尾張守
尾張守山の人。代々尾張守と名乗っていたが、織田備後守信秀が勢力を拡大し、信秀に仕えるようになると尾張守と名乗れず、尾張といっていたらしい。信秀、信長に仕え、機密事項等に関与したとみられる。永禄3年(1564)桶狭間の戦いに勝利した後、信長は皇室に綸旨を求めたといわれるが、皇室より内密の勅使、立入左京進宗継と磯貝新右衛門が尾張に入った際に2人を迎えたとされるのが道家尾張守。その息子、道家清十郎、助十郎は、元亀元年(1570)9月越前朝倉攻めに際し、志賀宇佐山城に布陣した森可成とともに戦死。それ以前に武田氏との東美濃高野口における戦いの際、兄弟で3つ頸を取るなどの戦功を挙げ、信長自ら白い旗に「天下一の勇士なり」としたため与えたとされ、その旗をさして戦い手柄を尽して討死したという。
な行
丹羽 長秀
尾張国春日井郡一帯の豪族。代々尾張守護斯波氏の家臣。父長政は織田信秀の配下。天文19年(1550)15歳にして信長に近侍。信長の養女と結婚。永禄8年(1565)頃中濃攻略に際し河尻秀隆とともに猿啄城・堂洞城攻めなどで活躍。また永禄12年には松井友閑とともに天下の名物召置きの奉行を務める。元亀2年(1571)小谷城の抑えとして近江佐和山城に入る。朝倉攻め、伊勢長島一向一揆掃討戦など数々の武功を上げ天正3年(1575)信長の奏請により朝廷から「惟住」の姓を賜る。安土城築城の責任者(普請奉行)。信長家臣団の中で柴田勝家とともに宿老として信長から一段上の信頼を得ていた。天正10年(1582)本能寺の変後は秀吉に合流し山崎の戦いに参加。秀吉に臣従し越前1国、加賀2郡の大封を受け羽柴越前守と称す。天正13年北ノ庄城にて病没。
は行
羽柴(木下) 秀吉
中村郷中々村の村長であり織田信秀の足軽であった木下弥右衛門の実子とされる。百姓では出世の見込みはないと武士を志し、遠州頭陀寺城の松下嘉兵衛の家臣となる。天文23年(1554)尾張に帰り生駒屋敷にて信長に仕官。永禄元年(1558)十五貫文の所領を与えられる。犬山攻めで鉄砲足軽頭百人組の組頭となる。その後も出世を重ね有力武将として活躍。天正10年(1582)6月の本能寺の変後、信長の死を秘して毛利氏と即座に講和し中国方面から軍を取って返し、6月13日には山崎の戦いで明智光秀を破り主君の無念を晴らした。同年10月15日に大徳寺にて信長の葬儀を大々的に執り行い、信長の後継者としての地位を固め、天正18年(1590)天下統一を果たした。
原田 直政(備中守)
尾張春日部郡の人。塙九郎左衛門と称す。信長の側近として若い頃から仕え、赤母衣衆の一人として活躍。永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参戦。元亀元年(1570)6月小谷城攻めから横山城攻めへ標的を変更した際、虎御前山からの退却戦に際し殿を務めた佐々成政を助けて奮戦した。天正3年(1575)長篠の戦いでは佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝らと共に鉄砲奉行を務めた。同年7月功績を認められて信長の奏請により朝廷から「原田」の姓を賜る。山城南部、さらに大和、河内までの行政を担当し、本願寺攻囲網の一翼を担う。天正4年4月に石山本願寺攻めが開始されると出陣し本願寺の南の天王寺砦に入り、同年5月、本願寺への海上からの補給線を断つため三津寺を攻撃するが、息子塙喜三郎、塙小七郎等一族ともども討死。
平手 汎秀
信長の教育係として信長を幼少の頃より補佐し、天文22年(1553)に信長を諌めて切腹した平手政秀の三男ともされる。しかし年齢的に政秀の嫡子宗政の嫡男であり、政秀の孫にあたる可能性が高い。元亀元年(1570)8月、野田・福島攻めに従軍。元亀3年11月、武田信玄に攻められた家康からの救援要請に応じ、信長は佐久間信盛、平手汎秀、水野信元、滝川一益らを派遣、三方原にて合戦となる。汎秀は武者大将として出陣、12月22日、先陣を務め、箕形屋にて討死。兵力に劣る家康信長連合軍は大敗し、家康は浜松に逃れた。汎秀は抜群の猛将で敵将信玄が深く感じ入り汎秀の首を岐阜城の信長に送ったという。汎秀は政秀寺に厚く葬られた。父宗政は天正2年に伊勢長島の戦いにて討死。
平手 政秀
織田信定の家臣平手経秀の子。信秀の家老を務め、天文12年(1543)には信秀の名代として上洛。信長の誕生後は、林秀貞、青山与三右衛門、内藤勝介とともに信長の傅役となり、林秀貞に次ぐ「ニ長(におとな)」とされ、那古屋城の台所も預かった。天文15年古渡城にて信長の元服のお供をする。同16年信長の初陣を後見。同17年頃には政秀が奔走し斉藤道三の娘と信長の婚姻を実現させる。天文22年(1553)、自領の尾張国志賀村で、当時「大うつけ」と評判になるほど型破りであった信長を諌めて自害。なお自害の少し前に政秀の長男五郎右衛門の駿馬を信長が所望しそれを五郎右衛門が断ったため信長と不和になったという。政秀自害後信長は沢彦宗恩を開山として小木村に政秀寺を開創し、厚く弔い、寺領三百貫を寄進した。
福富 秀勝(貞次)
鎌倉幕府に仕えた梶原景時の家臣、福富万蔵国秀が福冨家の初代。梶原一族討死後、尾州羽黒村に逃れた七人衆の一人が福富万蔵。山姥物語で知られる福富新蔵国平も先祖にあたる。信長の側近として若い頃から仕え、赤母衣衆の一人として活躍。永禄11年(1568)上洛時に山城の青龍寺城を攻略した際の検視役を猪子兵助と共に務めた。永禄12年8月の伊勢大河内城攻めに従軍。天正3年(1575)長篠の戦いでは佐々成政らと共に鉄砲奉行を務めている。木村次郎左衛門と共に安土町奉行としても活躍。天正5年松永久秀謀反の際は人質成敗の奉行を務めた。武将としてだけでなく菅屋長頼、矢部家定、長谷川秀一、堀秀政らともに側近吏僚として力を発揮した。天正10年(1582)本能寺の変にて信忠に従い二条城で討死。
不破 光治(河内守)
美濃安八郡の西保城、西保北方城を居城とした。斎藤氏に仕えるが誠実な人柄で斎藤道三の土岐氏へのクーデターに反対。斎藤義龍・龍興に仕えた後、信長に仕える。当初、浅井長政とお市の婚姻、織田と浅井の同盟に一役買った。永禄11年(1568)和田伊賀守・村井民部・島田所之助とともに足利義昭を越前から美濃立政寺に迎える使者の役を務めるなど外交面で活躍。その後、信長の天下平定作戦に従い、北畠攻め、姉川の戦い、野田福島戦、長島一向一揆戦、交野城の応援、真木島城攻めなどに参戦。越前一向一揆を平定後、佐々成政・前田利家とともに柴田勝家の目付役として越前国府中二郡を支配、龍門寺城を居城とし北陸平定に当たるとともに雑賀攻めなどにも従軍。「不破家譜」によると天正8年死去。法名・無道。
細川(長岡) 藤孝
第12代将軍足利義晴の子。天文8年(1539)細川元常の養子となり細川姓となる。母方の清原家は学問の家筋で武将としてばかりでなく文人(歌人・学者)としても著名。足利義輝の側近として有力。義輝自害後、義昭を擁立、朝倉氏、さらに織田氏を頼る。永禄11年(1568)に信長の擁立で義昭は上洛し第15代将軍となる。その後義昭と信長が決裂。天正元年(1571)藤孝は義昭側を離れ信長に臣従。天正3年信長より山城西岡の地を賜り長岡と改姓。本願寺攻め、長篠戦、安土城普請、石山城攻めなど各地の戦いに活躍。息子は細川忠興。天正10年(1582)本能寺の変後、忠興の妻の父明智光秀の誘いを断り家督を忠興に譲り隠居剃髪して「幽齋・玄旨」と号する。秀吉に従い出陣、文化人として活躍。家康時代にも招かれて幕府に諸政策を献言。
堀 秀政
美濃茜部城に居城、代々斎藤氏に仕えた。秀政は永禄8年(1565)13歳の頃から信長に仕え、信長の信頼厚く、代表的側近の一人となり、軍師・奉行として活躍した。元亀3年(1572)浅井長政攻めの際、浅井方への使者を務め、天正6年(1578)相撲興行の奉行、同7年安土宗論の奉行、同8年伴天連屋敷造営の奉行、同9年安土城北の馬場造営の奉行、同10年に安土城公開時の奉行、馬揃えの奉行なども務めた。一方、雑賀攻め、伊賀攻めなどでは武将としても活躍。天正10年(1582)本能寺の変の際は、中国で高松城を水攻めにしている羽柴秀吉への使いとして派遣されており、高松到着後に異変を知り、秀吉について山崎の戦いに参加。その後秀吉配下となり、徳川勢との小牧長久手戦にて功績。天正18年(1590)小田原攻めの時亡くなる。
ま行
前田 利家
前田氏は美濃斎藤家の一支族で美濃安八郡前田村より尾張へ移住。父利昌の代に分家し利家は荒子城で四男として誕生。幼名は犬千代。天文20年(1551)14歳で信長に仕え、尾張海津の戦いで初陣。赤母衣衆の一人。永禄2年(1559)同朋の拾阿弥を斬殺し出仕停止となり、美濃森部の戦いで戦功を挙げて許される。永禄12年家督相続。元亀元年(1570)石山本願寺との戦いをはじめ信長の天下統一戦に活躍。天正3年(1575)に佐々成政、不破光治と越前府中周辺十万石を三分して与えられ、同9年8月能登一国を与えられる。天正10年(1582)本能寺の変後は、秀吉に従い、佐々成政と対立しつつ北陸に確固たる地位を確立。文禄4年(1595)、秀吉の嗣子秀頼の扶育の役につき豊臣政権で重きをなす。秀吉死去の翌年慶長4年(1599)に死去。
村井 貞勝
信長の若い頃から側近官僚として文書事務等に携わる。信長は天文17年(1548)熱田の支配を信秀に委任されるが、同18年の熱田社に関する文書に貞勝の署名がみられる。永禄10年(1568)信長に内通した美濃3人衆の人質請取役、永禄11年足利義昭出迎え役を務め、信長の上洛に同行し以後京都の政務を担当。永禄12年に島田秀満とともに将軍義昭の御所造営の奉行、永禄13年に日乗朝山とともに内裏修理の奉行を務めた。天正元年(1573)7月に京都所司代となり、京都に常駐し、寺社領の安堵、課役課税の賦課免除、道や橋の修理、訴訟の調停、治安維持など京都の行政全般を担うとともに、朝廷・公家との連絡役として活躍。信長の意を受け戦乱の世に荒廃した京都の復興発展に尽力。天正10年(1582)本能寺の変に際し二条御所にて信忠とともに討死。
毛利 新介(秀高)
尾張国中島の出身とされる。信長の若年時より仕える。永禄3年(1560)5月桶狭間の合戦において、義元本陣へ攻め入り同じ馬廻りの服部小平太が今川義元に一番槍で攻めかかったものの義元の反撃にあって膝を切られ倒れた後、義元を打ち伏せその首級を挙げる殊勲を立てた。黒母衣衆の一員に抜擢され、永禄4年5月の西美濃攻略や永禄12年の伊勢攻略に従軍。その後は戦場には出ず朱印状の発給を取り次ぐなど信長の側近吏僚として活躍。天正10年(1582)4月信長のお側衆として武田攻めに従軍した際には奈良興福寺の塔頭より、主君信長、同僚の長谷川秀一、堀秀政とともに陣中見舞いの進物を贈られている。その後信忠の付人となり、6月の本能寺の変に際し二条御所にて信忠とともに討死。
森 可成
尾張国葉栗郡蓮台村に生まれ、成人後は三左衛門尉と名乗る。若年時は美濃国守護土岐頼芸に仕えるが、天文11年(1542)に頼芸が斎藤道三に追放され、まもなく織田信長に仕えたらしい。天文23年(1554)、信長が織田彦五郎信友を殺害し清洲城を奪った戦いに信長の武将として名前が登場。弘治2年(1556)弟の織田勘十郎信勝との稲生の戦いや、永禄元年(1558)岩倉城主織田信賢との浮野の戦いに参戦。桶狭間の戦い(1560)にも活躍。美濃攻略後、鳥峰城を与えられ以後金山(兼山)城と改名し、居城とする。永禄11年(1568)の上洛に従軍し京都の政務を担当。同12年の伊勢大河内攻めに従軍。元亀元年(1570)、越前朝倉攻めに際し、志賀宇佐山城に布陣。9月、浅井・朝倉軍の進撃を宇佐山城で迎え討ち善戦するも戦死。
森 蘭丸(長定)
金山城主森可成の三男。可成が元亀元年(1570)戦死した後、家督は兄の長可が継ぐ。天正5年(1577)13歳の時に安土城に召し出され信長の小姓となる。機転が利き頭脳明晰であった蘭丸は信長に寵愛され側近として信長に随身し、信長への取次ぎ、諸将の饗応などに活躍。天正7年に塩河伯耆守へ銀子百枚を遣わす際、また天正9年7月、安土にて信忠、信雄、信孝に脇差を贈与する際など褒賞の使者を務めた。天正10年1月には、伊勢神宮の遷宮のために3千貫を寄進する準備ために岐阜城に使者として派遣されている。天正10年武田攻めの後、兄長可が北信濃4郡を拝領し川中島城主となったため、蘭丸が金山城主となり、さらに米田島を与えられた。天正10年(1582)本能寺の変で、弟の坊丸、力丸と共に討死。享年18歳とされる。
や行
梁田 出羽守
尾張春日井郡九坪城主。はじめ斯波氏に仕えるが、やがて斯波氏に見切りをつけ信長に仕える。永禄3年(1560)桶狭間の合戦で功績を認められ沓掛城を与えられたという。元亀元年(1570)6月の小谷城攻めに際し、虎後前山から横山への転進の際、佐々成政、中条将監と共に殿を務める。天正2年(1574)の長島一揆征伐には信忠軍に属し活躍。天正3年7月、功績を認められ朝廷から別喜右近という官位を賜る。同年8月、加賀一向一揆鎮圧後、加賀を委ねられるが、すぐ一揆が再蜂起し、これを抑える事ができず蟄居。天正6年信忠の命により兵庫・明石間などの海賊警護役を務めているが天正7年に没した。なお桶狭間の戦いで活躍した簗田出羽守と別喜右近を賜った簗田広正とは別人との見方もある。
山内 一豊
父盛豊は岩倉織田氏(信安)に仕え黒田城主、永禄2年(1559)信長に攻められ岩倉城が陥落した際に自害。一豊は各地を流浪の末、織田信長配下の馬廻り役に就き元亀元年(1570)、25歳で与力として実戦に参加。秀吉の配下で、長篠の戦い、播磨攻め、有岡城攻めなど各地を転戦し数々の戦功を挙げる。天正9年(1581)2月の馬揃えに妻の内助の功によって入手した名馬で参加し信長を感嘆させたとの有名な逸話がある。天正10年(1582)本能寺の変後も秀吉の下で賤ヶ岳の戦い、小牧の戦いなどに従軍し、天正13年(1585)長浜城主、天正18年小田原の陣の後、掛川城主となる。秀吉没後、家康につき掛川城を東軍に提供して家康を感激させ、関が原の戦いに勝利した後、土佐20万石を与えられる。慶長10年(1605)没。
湯浅 甚助
信長の小姓として仕える。永禄12年(1569)、伊勢大河内城攻めに参戦し、毛利新助、猪子兵助らとともに柵際の廻番を務めた。元亀元年(1570)9月、三好三人衆の残党が野田・福島に砦を築き、これに対し出陣した信長勢に対し石山本願寺の一揆勢が攻撃した大坂の天満の森の戦いにおいて前田利家を救援するなど活躍。元亀2年5月の長島一揆攻めにも加わり野々村三十郎と共に部隊間の連絡役を務めている。天正3年(1575)長篠の戦いにおいても信長の使走りを務めた。天正6年12月、荒木村重の謀反を受けた有岡城攻めに参戦、高槻の城番を命ぜられる。天正10年(1582)本能寺の変の際は、寺の外に宿泊していたが小倉松寿とともに駆けつけて奮戦し討死したという。